自分でもどうにかしていると思う。初対面の人間に名刺を押し付けるだなんて。それも僕は広報でもない、潜水艦に乗っている一遊撃手に過ぎないっていうのに。しかも相手は一番反りが合わないと思っていた天然ボケだ。世の中なにがあるかわかったものじゃない。
押し付けたからと言って何かアクションをとったわけでもないし、その場の勢い気の迷いっていうことで済ませよう。何度もいい聞かせたおかげで、僕は名刺の存在も、あの日、基地見学祭の案内練習も兼ねて母艦の案内をしたブンヤの青年のことも忘れていた。足回りの不備で母艦がドッグを出たり入ったりしている関係上、半ば地上勤務のようになっていて休日が多いのも幸いした。航海に出ている間は疎遠になっている家族と連絡をとったり、友人と会ったり、それなりに忙しく過ごすことが出来ていたからね。
その僕が。なんで。
「――君と差し向かいで居酒屋にいるんだろうね?」
何度目かの僕の呟きに、例のブンヤの青年がきょとんとした。
「もしかして安酒苦手? ごめん、オレ安い店しか知らないんだ」
問題はそこじゃないと思う。軍人の安月給を知らないのか、この男。
「平気だよ。上官ならともかく、僕らくらいの下士官じゃあ贅沢できないから」
「そっか。よかった、なんか海軍の人ってさ、グルメでお洒落のイメージあるし」
無邪気なその一言に頬が引き攣った。外交官としての顔も持つ貴族軍人ならともかく、そんなこと出来る立場はまだまだ先だ。たしかに艦で出るご飯は美味しいけれど、それは航海に出たあとの艦じゃあご飯くらいしか楽しみがないからで、普段から美味しい店を転々としているわけじゃない。それに先にも言った通り、基本的に軍人は安月給だ。安酒なんて飲み慣れているし、ここのお店のお酒や料理を美味しいと感じる舌もある。
内装も綺麗で、荒削りの机は木の匂いがして新鮮だ。いつもはディーゼル臭い艦内で汗臭い同僚と働いている体に、ふわりとやさしい空気が届いて気持ちいい。基地から近い場所にこんな店があるなんて知らなかったから、それだけは少し得した気分になる。
「次ビールにしようかな。准尉は? なんか頼む?」
「――僕もビールで」
了解、と、子どもみたいな顔で笑った彼のテンポにのまれてどうにかなりそうだった。そもそも今日が非番で、珍しく予定が入っていなくて、しかも明日も非番で外泊出せば門限を気にせずに飲み明かせる日で、そこに彼の休みが被ってしまったのが事の発端なんだと思う。携帯にかかってきた電話番号は知らない番号だったけど、しょっちゅう携帯をへし折っては新規購入している幼馴染がいるからどうせまただろうと思って、出てしまった。
まさか名刺を渡したカメラマンが本気で電話をかけてきて、その上飲みに誘われるなんて誰が思うものか。
「カメラマンって、暇なのかい」
「いや、そうでもないけど。この間の基地祭が終わってスケジュールに余裕できたからさ。今は結構ヒマかなあ。新米にもちゃんと有給取らせてくれるのがうちのいいとこだし」
「へえ、いい職場だね」
「准尉こそ門限とか大丈夫なの? 隊則厳しいんだろ」
「飲みに出るときは外泊届出してくる。門限気にしながら飲むのはつまらない」
運ばれてきたジョッキに口をつけながら言う。それにしても、さっきから。准尉、准尉って。僕の名前もちゃんと名刺に書いてあるし、初対面のときにきちんと名乗ったはずだ。隊の外でまで階級で呼ばなくたっていいのに。
ちびちびと大事そうにビールを飲んでいる彼を捕まえて、抗議した。
「僕の名前を知らないわけじゃないんだから、准尉は止めてほしい」
「――いいの?」
「プライベートで階級を名乗る趣味はないよ」
「じゃあ、ハギ?」
思わず机に突っ伏した。そうきたか。いや、それは正しい。確かに表向き僕の名前はハギだ。書類の名前は違うけどその辺はきちんと許可をとっているからいいとして、成程そうきたか。
「――……シゲルでいい。こっちもサトシって呼ぶから」
どうして名前を呼んだくらいでそんなに嬉しそうにするんだ。これでちゃんと友達になれたよな、なんて言わないでほしい。調子が狂う。
でも考えてみれば、僕は最初からサトシに調子を狂わされてばかりだった。沈むではなく潜ると言ってくれたこと、その例えに、遊撃手としての僕が命を預けているカメックスを使ったこと。それなのに、馬鹿正直と言ってもいいくらいの素直さ。何もかもが物珍しくて、渡す予定のなかった名刺を渡そうと思ってしまったんだから。
「友達ならこれからも一緒に飲んでくれるんだろうね、サトシ」
聞くことすら予定調和の言葉に、サトシは今日一番嬉しそうに頷いた。ああもう、この職業、この歳で友達ができるとは思わなかった。まったく、世の中なにがあるのかわかったものじゃない。
影に閉じる