知っていますか。生物にとって危険なのは気温の上昇ではなく下降なんです。行き過ぎればどちらも毒ですが、氷点下ではほぼすべての細菌は死滅、休眠状態に入り生命活動を休止させる生物もいます。あいつは八年前からずっとシロガネ山にいた。おかしいとは思いませんか。山頂の気温は零下三十度を記録する場合もあります。あの場所は生物の住める環境ではなかった。なのにあいつは生きていた。風邪をひかないのかと尋ねた俺に、大丈夫だと笑っていた。その理由は、風邪の元となる微生物すら死ぬような環境だからです。ろくな防寒装備も知識もなかった母体が生き残っているのは不自然でした。けれどその時の俺は気づかなかった。知識を得、ようやくその事に気付いた時には五年の月日が流れていました。慌てましたよ。自分の知識の浅さに。レッドだから不思議じゃない、そんなことを思っていた自分がおかしかった。早く連れ戻さないと大変なことになる、そう直感した俺はあいつを連れ戻しました。そして奴は病気に罹り、三ヶ月間寝たきりの生活を送ったんです。おかしな話ですよね。シロガネでは元気にしていたのに、麓であいつは弱った。閃いたのはそれが切っ掛けです。適応化。レッドの体はシロガネの環境に特化し、適応しているんじゃないかと。危機的状況下においてポケモンが体を小さくするのは遺伝子中に刻まれた防衛本能であることは有名です。俺達トレーナーはそれを利用して捕獲する。しかし種の保存だけであるなら小型化する必要はないんです。むしろ非効率だ。ならばそれは、どのような環境にも適応できるよう、体積を減らすことによって肉体にかかる負担を減らす行動なのだと俺は考えました。そして俺が唱えようとしていた仮説は、人もポケモンの一種であるということでした。小型化することがポケモンの第一条件として学会では提示されていた、ならばその第一条件から疑ってかかり、小型化とは適応化に伴う副次的能力でしかないと定義したんです。そう考えれば、レッドの状態は俺にとっていっそ歓迎すべきものでした。自分の仮説を証明するかもしれない、貴重な事例です。だけどそんなこと、到底できなかった。あいつは俺のライバルでした。口にしたことはなかったけど、親友でもあった。レッドの体がシロガネに適応しているのかどうか、レッドは人並み外れて適応力が強く、それがバトルの強さにも影響しているのか、色々と考察し立証する機会を俺は捨て、レッドの世話を続けました。親友の体を弄繰り回さないと決めた俺にできることは、そんなことだけだった。けれど、もう手遅れだったんです。レッドの体はシロガネの環境に適応していました。あいつは先祖返りとでも言うのか、人よりも適応化に優れ、どのような環境にでも特化し生き残る本能を持っていました。種の保存能力としては人よりもポケモンに近い生き物だった。過酷な環境で生き延びることに特化したレッドの肉体は、その環境下でしか生きられなくなっていた。グレイシアが氷雪の中に身を隠すように、ピカチュウが雷を体内に溜めこむように、あいつはシロガネの酸素と冷気がなければ生きられない体になっていたんです。もう少し早く気づいていれば、シロガネに登って一年目、あいつが寒さを感じているうちに連れ戻していれば、こんなことにはならなかった。
「――だから俺はあいつを連れ出し、シロガネに連れて行きました。レッドは今、シロガネの山頂にいるはずです」
抱え込んだ片膝に額を埋めていた青年が顔を上げ、こちらを見た。ふわりと宙に舞う生成りのカーテンの向こう、青年の腰掛けるパイプ椅子の背後に、誰もいないベッドが見える。
「俺の仮説が正しいのかどうか、わかりません。間違っているのだと思います。間違っていればいいとも思います。けれどひとつだけ確かなのは、シロガネに連れて行った一週間後、レッドは回復した。――お願いだから言って下さい。すべて俺の所為だと。俺が悪いんだと。じゃないとレッドも俺も、なにひとつ終われない」
蜂蜜色の目を細めて、青年はわらった。環境に適応したからといって、最低限の衣食住すら誰かの保護を必要とする。人生において無二の存在をそのような生き物にしたのは、他ならない自分なのだと。
「銀世界の箱庭で息をする、あいつは生きた亡霊なんです」
(待ち合わせ場所は君の墓標)