07

私にとって跡部は遠い存在だった。
氷帝に入学した時には彼はすでに今の地位を確立していて、おいそれとは近づけるはずもなく、月とスッポンってこういうことを言うんだなぁ、なんて思ったりもしたし、お金持ちは気楽でいいなぁとバイトに勤しみながら恨みつらみを心の中で吐き出したりもしていた。
けれどそれが一年後に一変した。跡部と出会って、みんなの知らない跡部の姿を見てきた。
跡部の特別になれて、こんな近くに、触れられる距離にいるのに、今はそれがもどかしい。

「あー楽しかった!」

イルカショーを見終えて今度は屋外エリアに行くことにした。進んだ先にカワウソのエリアがあり、ちょうどスタッフさんがエサやりをしている最中だった。

「カワウソだって。私初めてみた」
「握手できるらしいぞ」
「やってみたい!」

ということでスタッフさんにお願いして握手をさせてもらえることになった。
お相手はコツメカワウソのよーじくん。好奇心旺盛な男の子。ガラスのケージに穴が開いていて、そこから手だけ出してくれる姿が可愛らしい。

「写真撮るか?」
「うん、お願い」

ズボンのポケットからスマホを取り出し私とよーじくんにレンズが向けられる。
よーじくんの手に向かって人差し指を差し出すと私の指をエサと勘違いしたらしくちいさな手が指を包み込み、ふにゃっとした柔らかい感触が指に伝わった。
なんだこの肉球のプニプニさ!なんとも形容しがたい感触で、よーじくんの愛らしい表情を相まって可愛さマックスでテンションが上がっている私は跡部に顔を向ける。

「どうしよう、跡部。よーじくん凄い可愛い!家で飼いたい!」
「そうだな。飼えるかミカエルに相談してみるか」
「え?」

カシャっとシャッター音が鳴り、スマホを覗いていた跡部の顔が私に向けられる。
跡部は楽しそうに笑っていたけど、ミカエルさんに相談?

「よーじは無理だが、こどものカワウソぐらいどうにかなるだろ」
「本当に飼っちゃうの?」
「可能ならな。飼いたいって言い出したのは玲子だろ」
「そりゃあ、跡部邸で飼えるなら毎日でも通いたいけど」
「決まりだな」

決まっちゃったー。ミカエルさん、跡部に甘そうだから簡単に飼えちゃいそう。でもそうなったら跡部家に居座っちゃうなぁ。カワウソを飼う想像で頬が緩み、その顔をじっと見られていることに気付いて首を傾げる。

「何か顔についてる?」
「いや。今日の玲子、いつもよりはしゃいでるなと思ってな」

ぎくりとする。はしゃいでいるのは本当で、いつもよりテンションが高いことも事実だ。少しだけ空元気も混ざってるけど。それは跡部に気付かれてない、大丈夫。

「だって楽しいんだもん。跡部もほら!」

手招きをして跡部を呼ぶと、指をガラスのケージに近付けた。自分のスマホをカメラモードに切り替えてシャッターチャンスを待つ。
よーじくんの手が跡部の指に絡む。すると、跡部の口からくっという声が漏れ、顔を私とは真逆の方向へ逸らされた。

「急にどうしたの?具合でも悪くなった?」
「か、」
「か?」
「可愛いじゃねーの」

どうやら跡部もよーじくんの可愛さにメロメロになったようで、私に腑抜けた顔を見られたくなかったらしい。撮れた写真にもブレた跡部しか写ってなかったからその顔は拝めずじまいだ。秘蔵の1枚になってたかもしれないのに、残念だ。
そして最後にカワウソの家族と私たちの写真をスタッフさんに撮ってもらい、カワウソに可愛さにやられて大満足の跡部と進路を進むとお土産のコーナーに辿り着いた。
何か買うか?と聞かれ私はあることを思い出してキーホルダーのコーナーへ行き、目に留まったカワウソの写真がプリントされたキーホルダーを手に取る。

「これがいい。生徒会室の鍵につけるのにちょうどいいし」
「そんなものでいいのか?」
「そんなものじゃないよ。これがいいの。カワウソ可愛かったし」

そうだな、なんて言って跡部も私が手に持っているポーズ違いのカワウソのキーホルダーを手に取った。

「跡部も買うの?」
「なんだ、揃いの物を持つのは嫌か?」
「嫌ではないけど恥ずかしくない?」
「抵抗はないな」

意外だ。ペアルックの洋服とか提案したら着てくれるのかな。合羽は抵抗したけど。
というかこのキーホルダーどこにつける気だ?もしかしてテニスバッグ、とか?

「ちょっと聞くけど、それどこにつける気?」
「テニスバッグだが」

やっぱそうか!
さらっと答えたけどテニスバッグってわりと人目につくし、目ざとい跡部倶楽部のみんながそれを見逃すわけがない。

「変な噂立つよ」
「変な噂?」
「跡部様が可愛いカワウソのキーホルダーをつけていた!彼女はファンシー系か!?って跡部通信の最大の見出しついちゃうよ」

未だに跡部通信というものがどういうものなのかわからないけど、会報誌だとしたら話題の的になってしまう。一大スキャンダルだ。
私がそんな心配しているのに対し跡部はそんなこと心配していない様子だ。

「魔除けにいいんじゃねぇか?」
「魔除け……」

手に持っているカワウソのキーホルダーを見るときゅるんっとした潤んだ瞳と目が合った。
この可愛さには勝てない!
結局カワウソの潤んだ瞳に負けてお揃いのキーホルダーを購入することになった。





キーホルダーを買い、カフェで一休みした後クラゲのコーナーへ行くことにした。
世界各地のクラゲが集い、ここも日本一のクラゲエリアになるらしい。
水槽には数々のクラゲが優雅に泳いでいてその美しさに圧倒された。水族館の暗い照明やクラゲの幻想的な雰囲気に、ここは本当に現実の世界なのかわからなくなってくる。

「綺麗だな」
「私、来世はクラゲがいいなー」
「なんだよそれ」
「だってこんなに綺麗だし」
「水族館に展示されなきゃ意味ねぇだろ」
「まぁそうかもしれないけど。あ、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「迷子になるなよ」
「ならないよ」

案内図に従い女子トイレを見つけると私は一目散に駆け込んだ。洗面台に手をついて大きく息を吸って吐く。
何やってんの、私!普通に楽しんじゃってるじゃん!いつ、どのタイミングで跡部に言うわけ!?というか「私、就職するの」っていう告白から良い雰囲気に戻れる自信なんてない!
やっぱり今日はやめよう。仕切り直してちゃんと話し合える場を作ろう。楽しいままデートを終えたい。そう思って女子トイレを出て跡部の元まで戻る。
跡部は戻ってきた私に気付いてないようで視線はクラゲに向かっていた。その横顔がとても綺麗で、その瞬間、この世界に私たちしかいないような錯覚に陥った。胸がぎゅっと締め付けられ、そこから動くことができなかった。
私はこの人が好きだ。唐突に、そんな思いが込み上げる。その頬に触れても嫌がることなく、笑顔で私を受け入れてくれる跡部が好きだ。だから近付きたいと、もっと傍にいたいと思う。
跡部と出会って私の人生は変わった。猫を被らなくても素の自分を好きになってくれる人がいてくれることを知ったし、魚を愛でることもなかった。クラゲがこんな幻想的で綺麗なことも知らなかった。

「玲子?」

名前を呼ばれ我に返る。私を呼ぶ声が優しくて泣きそうになった。

「私、跡部のこと好きだよ」
「なんだよ突然」

好きだから同じ景色を見たいと思った。同じ場所に立ちたいと思った。それが叶わなくなったことをきちんと言わなくちゃ。
茶化そうとした跡部も、私の真剣な表情を読み取ったのか傍に来てくれて抱きしめてくれた。その温もりを離したくない。

「俺も玲子と同じ気持ちだ。……だから正直に話してほしい。玲子、俺に何を隠している?」

予想もしていなかったことを聞かれ、息を呑んだ。
抱きしめられていた腕が離れ跡部と向き合う。

「ときどき俺に何か言いたそうにしてただろ。玲子が打ち明けてくれるまで待とうと思った。今日だって様子がいつもと違うことぐらい気付いてんだよ」
「……どうしてわかっちゃうかなぁ」

ふぅ、と息を吐きだして跡部を見つめる。
跡部の瞳は核心を持ってるような揺るぎがなくて逸らしてしまいそうになった。邪な感情も、黒く濁った心も、跡部に全て見透かされてるみたいだ。

「……跡部に近付きたいって思ったの。同じ場所に立って同じ景色を見たいって。でもそれが無理だってことに気付いた。普通の高校生が経済雑誌になんて載れないし、こんな立派な建物の建築に携われたりなんてできない。跡部だからできるってことわかってる?」
「そんなものとっくの昔に自覚してる。俺は跡部景吾で、跡部財閥の御曹司だ。期待をされるのは当たり前の話だろ」

いきなりのパンチに防御ができない。その正論が私の心を深く抉るの、わかってるのかな。

「俺は玲子じゃない。言葉にしねぇとわからないこともあるだろう。お前は何を隠してる?」
「……進路のこと」

たっぷりと空気を吸ってお腹に力を入れた。そうでもしないと真っ直ぐ立っていられないような気がしたから。

「私、進学しないで就職することに決めたの」
「そんなこと、」
「そんなこと?」

その言葉を聞いて一気に血の気が引く感覚がした。寒くもないのに足先が冷たくなっていく。
そんなことって言った?あれ、私ちゃんと立ててる?それすらもわからなくなってる。

「跡部にとってはそんなことで片付けられることかもしれないけど、私にとっては物凄く大切なことなの」

私は勘違いをしていた。というか間違ってた。就職することを言ってしまえば、跡部は私に手を差し伸べてくれると思ってた。それがお金が絡む援助だったりするかもしれないから今まで黙ってたのに。それ自体が間違いだった。
『そんなこと』の一言で片付けられることだった。跡部にとって私の進路のことはそんなに大したことじゃないって思われてたんだ。
まぁそうか。しょせん他人だもん。人の人生なんて興味ないよ。跡部だって甘い人間じゃない。一人でうだうだ悩んで、バカみたいだ。
そういえば、と思い出す。テニス部がインターハイ出場を決めた日。会長と向かったカフェで彼女は最後、冷め切った紅茶を飲まなかった。跡部もきっと同じことをするんだろう。私はもったいないからその紅茶を飲み干す。多分、そういうのが違いなんだ。きっとそんな小さなことの積み重ねが続いて、ほんのわずかな小さなズレが修復できないほど大きくなっていく。

「わかってる。玲子にとってそれがどれだけ大事で重要か。だから俺は、」
「わかってないよ!」

遮って怒鳴った。空気が静まり返る。良い雰囲気がぶち壊しになっちゃった。
ごめんね、クラゲたち。君たちは見に来てくれた人たちを幸せにするためにそこにいるのに、幸せどころか険悪なムードが漂っている。いっそクラゲになれたら楽かもしれないなぁなんて思った。
喧嘩をしたいわけじゃない。私はただ、跡部に寄り添ってほしかっただけなんだ。私の気持ちを肯定してほしかった。間違いじゃないって。ただ、そう言ってほしかったんだ。
なんだか悔しい。涙目になっているのが自分でもわかる。でも泣いちゃ駄目だ。そんなみっともない姿、跡部に見せられない。

「跡部に私の気持ちなんてわかるわけない。跡部は何でも持ってるし、何でも手に入る。私とは違う世界の人間なの。それが私の劣等感を煽ってるの」
「だからって進路の話を黙ってたのは筋違いだろ」
「そっちだって大学の話とか全然してこなかったじゃん。留学、するんでしょ」

留学という言葉に跡部の勢いが止まった。
お互い避けてたわけじゃないのに今までそんな話にならなかったのは無意識に進路の話を遠ざけてたのかもしれない。先延ばしにしてた日が今日だったってだけだ。
跡部は何か言いたげにしているけど、口は噤んだまま。

「……先に進んでいく跡部を見ると不安になるの。こんなに近くにいるのに、どんどん遠い存在になってく」

涙を流すまいと必死に堪えてるから声が小さくなる。でも最後まで言い切りたかった。
知らない跡部が増えていくことが怖いってこと。もっと跡部のことを知りたいってこと。私がどういう思いで就職を決めたかってこと。
話したいことはいっぱいあるのに、喉に突っかかって上手く言葉が出てこない。ねぇ、何か言ってよ、跡部。

「……俺は、先に進んだつもりなんてないぞ」

跡部の声もそれまでに比べてあまり自信なさげな声色で、その顔は悲しそうに翳っていた。直視出来なくて自然と視線が下がってしまう。

「ごめん。今日はもう帰るね」

このままここにいちゃ駄目だ。涙が零れ落ちないように早くここから立ち去ろう。
出口に向かおうとすると玲子、と呼び止められた。

「また、ちゃんと話し合おう」

また、はちゃんと来るのかな、と思ったけど私も何も言わないまま振り返らずに出口に急ぐ。
伝えたいことがいっぱいあったのに、どうして上手くいかないんだろう。



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