05

もったいないと思うけど、雑誌を捨てようと決めたのは帰宅してお風呂に浸かっている時だった。
家に置いておくと胸の奥がザワザワしてしかたがない。
あれは見なかったことにしよう。そう決心してお風呂から上がると、母親が仕事から帰ってきていて、机の上に置いておいた雑誌をパラパラ捲っていた。目が合い、ニヤリと微笑まれる。

「バッチリ跡部君が載ってるわね」

特集ページを私に見せ、ちゃんと青春してるんじゃない、と嬉しそうに笑っていた。隠しておくんだった!

「ちゃんとしまっておきなさいよ」
「……捨てようかなって思ってたんだけど」
「どうして?跡部君かっこいいじゃない。実物の方が断然かっこいいと思うけど」

そういう問題じゃないんだけど。母親にこんなことを言うのも筋違いだしなぁ。返答に困っていると母は小さく笑って私に尋ねてきた。

「付き合ってるんでしょう、跡部君と」
「えっ」

どうしてお母さんが知ってるの!?一言もそんなこと言ってないのに!
どう返事しようと困っていると、私の反応を見てふふっと笑った。

「その様子だと図星だったみたいね」
「鎌かけたの!?」

鎌をかけた、というよりもメイク道具が新しくなったことや最近日曜日にバイトを入れてないことなど私の変化に気付いていたらしかった。まぁでも気付くか。自分の部屋がないから鏡台だって同じ物を使ってるし、メイク道具なども嫌でも目に入る。隠し事が一切できない我が家だ。貧乏の弊害が一つ増えた!

「鎌かけたって人聞き悪いこと言わないでよ。玲子を見てたらわかるわよ。だってすごく綺麗になったんだもの。良かったわね」
「うん。ありがとう」
「でも、玲子は昔から現実主義なところがあるのよね」
「……そうだっけ?」
「昔よく言ってたじゃない。シンデレラはガラスの靴をわざと落としたんだって。でもまだ夢を見ていい歳なんだし、捨てるべきじゃないってお母さんは思うな。それに捨てるなんてもったいないじゃない」

母親にそう説得させられ、結局雑誌は我が家に置いておくことになった。


そんなある日、あの経済雑誌をちゃんと読んでないことに気付いて棚から引っ張り出し隅々まで読むことにした。
跡部父と跡部との何気ない会話まで文字が起こされている。そして跡部単独のインタビュー記事へと移る。担当したインタビュアーの人はあまりプライベートな事を詮索しない人だったらしく内容も最近の世界経済のことだったり今後の跡部財閥の展望のことだったりを深掘りしていた。少し意地悪な質問もあったけど、きっと跡部のことだ。臆することなく答えたんだろうなと想像できた。
そして突然学校生活の話になる。そこで私は信じられないものを目にしてしまった。
『親しい人たちからはなんて呼ばれてますか?』という質問に『そうですね、部活の仲間には苗字で呼ばれたり、親しみを込めて景吾君と呼ぶ仲間もいます。海外の友人は皆ファーストネームで呼んでくれてますね』と答えている箇所があった。
その該当の文字をもう一度追う。
『親しみを込めて景吾君と呼ぶ仲間もいます』

「親しみを込めて……」

親しみを込めて、ともう一度心の中で反芻する。
『景吾君』。ふーん、景吾君ねぇ。まぁ、跡部だって付き合いは学校内だけじゃないんだからそう呼ばせる女の子もいるかもしれないし?仲の良い女の子だって一人や二人いるんだろうし、景吾君って呼んでる親しい女の子がいることだって不思議じゃない。でも一度もそんな女の子に遭遇したことないってことは私に隠してるってこと?
何それ、凄く悔しい!というよりも隠し事をされていたことがショックだ。
距離がだんだん離れて行ってるようで寂しく感じてしまった。





「私、跡部のことを名前で呼ぼうと思う!」
「……どういう風の吹き回しだ?」

梅雨に入り除湿機がフル稼働している生徒会室に私の声が響いた。
お弁当を食べ終え、タイミングを見計らって口に出したけど、突然のことに隣に座っていた跡部は少し困惑気味だ。
この雑誌、と私は鞄から例の雑誌を取り出し机に置く。

「なんだよ、買ったのか?」
「会長からもらったの。貧乏のあなたには買えないでしょうからって嫌味は言われたけど」
「言ってくれたら取り寄せたぞ」
「言ってくれなかったじゃん。モデルみたいに写真何枚も載せちゃってさ」
「この雑誌の編集長と親父が同級生でな。メディア慣れの機会を作ってもらったんだ」
「もう十分慣れてるでしょ」
「随分機嫌がいいんだな。玲子に黙ってたのがそんなに気に入らなかったのか?」
「そうじゃないよ。私が気に入らなかったのはここだよ、ここ」

『親しみを込めて景吾君と呼ぶ仲間もいます』というところを指差して跡部に示す。指差した文字を目で追って、跡部はあーと声を出した。まずいものが見つかったみたいなリアクションで私はさらに追求する。

「もしかしてこれを隠すために私に黙ってたってことはない?」
「それはねぇよ。何か勘違いしてるぞ」
「勘違い?」
「萩之介だ」
「……萩之介?」
「知ってるだろ、滝萩之介。テニス部の。そいつが俺のことをそう呼ぶんだよ」
「滝君?仲良いの?」
「まぁ本を貸し借りするぐらいにはな」

知らなかった!
跡部に詳しく聞いてみると、お互いに名前を呼び始めたのは中学からで、違和感は全くなかったという。なのであの質問が出たときも、滝君の顔が浮かびそう答えたそうだ。

「で、俺のことを名前で呼ぶ?すればいいだろ。玲子は俺の彼女だ」

お前にできるのか?とでも言いたげな挑発的な態度だ。脚を組み、顎をくいっと上にあげた。
今までだって景吾君とか景吾さんとか、必要な時はそう呼んでたんだし、呼び捨てなんて簡単にできるよ。

「け、」
「け?」

その先を促すように跡部は繰り返す。
何を躊躇ってるんだ、私!景吾って言えばいいだけなのに、どうしてもその先がつっかえてなかなか口に出せない。

「けい、ご。……うわぁあ!物凄く恥ずかしい!」

まともに跡部の顔が見れなくて机に置いていた雑誌で顔を隠す。
これは思っていた以上に恥ずかしい!

「耳まで赤くなってんぞ。珍しいな」

そう指摘され隠しきれてなかった右耳の耳たぶをむぎゅっと摘まれた。うわぁっと声が出る。跡部の笑い声がしたので渋々雑誌を鞄にしまい真正面から向き合うと嬉しそうに笑っていた。
文句の一つでも言いたかったけどあまりに嬉しそうだったので毒気が抜けていく。

「そんなに難しいことか?」
「難しい、というか恥ずかしいというか、背中がゾワゾワしない?」
「違和感はなかったぜ」
「そりゃあ呼ばれた方はそうかもしれないけど。というか跡部ってあんまり親しくなかった頃から私のことを下の名前で呼んでたよね」
「そうだな」
「よくナチュラルに下の名前で呼べたよね」
「まぁ、海外じゃファーストネームで呼ぶのが礼儀みたいなところがあるしな。レオンだって玲子のこと名前で呼んでただろ」
「レオン君は生粋のイングランドの人じゃん。跡部は日本人でしょ。……もういい、この際だから景ちゃんって呼んでやる!」
「いいぜ」

ケロッとした顔で受け入れたので、えっ、という声が口から漏れた。
嫌がられると思ってたのに、真逆の反応をされた。え、何それ、どういうこと?

「いつ何時でも俺のことを景ちゃんと呼ぶなら勘弁してやる。自分の母親の前でもそう呼ぶってことだよなぁ?なぁ玲子ちゃんよ」

嬉しそうな顔から一変して、今度は口角を上げてニヤリと笑っている。
嵌められた!

「お前にそれが耐えられるか?」
「……ほんっとうに性格悪いね!」
「バーカ、気を許してんだろうが」

こつんと頭を小突かれる。その表情は楽しそうなんだけど優しくて、目尻がほんの僅か下がっていた。それが跡部にとって気を許してる証拠らしい。まぁそれはわかる。こんな表情付き合う前は見せてくれなかった。

「これからゆっくり慣らしていけばいい」

頭を撫でられそのままその手が頬に触れる。
うわ、もしかしてキスされる!?と身構えていると今度は頬をむぎゅっと摘まれた。え、しないの?と拍子抜けしているとキスされると思ったか?と跡部はしたり顔だ。

「そういう雰囲気だったからだよ」
「そうか?それはそうと」

あ、話をすり替えた。

「水族館行かないか?」
「水族館?」
「春休みからずっと保留になってただろ」

そういえばそうだった、と思い出す。春休みに水族館に行こうっていう話だったのに跡部父の襲来によって水族館デートはなし崩し的になくなったんだった。

「ちょっと待ってね。シフト確認するから」

鞄からスマホを取り出し今月のシフトを確認する。
今度の日曜日なら一日休みだ。そのことを伝えると水族館デートはその日に決定した。

「そういえばどこの水族館に行くの?池袋?品川の方にもあったよね」

都内の私が知ってる水族館といえばその二箇所ぐらいだ。人生で水族館なんて一回しか行ったことがなく、知識がないせいでもある。それも小学校の時の社会科見学だったけど。その時は池袋の水族館だった。ペンギンの大行進に数人の女の子に混ざって興奮したことは覚えている。

「いいや。湾岸エリアに新しい水族館が建設されたのは知ってるか?」
「ごめん、知らない」

そう答えると跡部は立ち上がり生徒会長の席の引き出しからパンフレットのような冊子を取り出し私に渡してくれた。
『ATOBE aquarium(仮) 7月1日オープン!』と大きく文字が印字されており、外観のイメージ絵も一緒に印刷されていた。そこには家族連れや若いカップル、年老いた夫婦のような人たちの姿もある。

「跡部財閥が新たに事業を拡大してな。老若男女が楽しめるをコンセプトに新しく水族館をオープンさせることにしたんだ」
「でもオープン日まだじゃない?もしかしてお客さんは私たちだけってこと?貸切?」
「あぁ。もう魚たちの搬入も終わってるんだが、新規のスタッフも多くてな。接客に不慣れなこともあるだろうから玲子に少し手伝ってほしい」
「悪質クレーマーを演じてくれ、とか?」
「そんなことまで頼むかよ。ただ普通に、客としての意見が聞いてみたいんだ。オープン前の貴重な意見だ。こんなこと玲子にしか頼めないからな」

そこまで言われたら行くしかない。というか貸切にしたっていうだけだと私が萎縮してしまうからそんな提案をしてくれたのかな。まぁモニターとしての意見を聞きたいのも本当だろうけど。

「うん、わかった。日曜日楽しみにしてるね」

パンフレットを開くと見開きでエントランスの完成図があり、さらにページを捲るとイルカの巨大水槽を見ながらお茶ができるカフェやヒトデや小さい魚と触れ合えるスペースも完成予定でイメージ図が載っていた。これは楽しそうだ。

「玲子」
「ん?何?」

名前を呼ばれ顔を跡部の方へ向けると頬に唇の感触がした。まさか頬にキスをされるとは思ってなかったからぎゃっと悲鳴が出る。
唇が離れ本当に色気のない声だな、と何度か言われた台詞を言われた。

「だっていきなりするから。心構えっていうものをさせてよ」
「なら次からはきちんと心構えをしておけよ、玲子ちゃんよ」
「そうだね、景ちゃんよ」

フッと鼻で笑われたので嫌味のつもりで景ちゃん呼びをした。
あーもう悔しい!跡部をあっと驚かせてやりたい!そのためには跡部をきちんと名前で呼ばなきゃ。
日曜日までにはなんとか名前呼びをしてやる、と心に誓ったのだった。





デートが明後日に近付いた金曜日。あれだけ心に誓ったのに結局景吾呼びはできなかった。心の中で景吾と繰り返し呼んでみるけど、本人を目の前にすると何故だか恥ずかしくて、景吾はおろか跡部と呼ぶこともあまりできなくなった。その様子を見て跡部は楽しんでいるようで、ときどき玲子ちゃん、と私を煽るように呼ぶ。それが悔しさを倍増させるのだった。
バイトが終わり自宅に帰るとちょうど母親の帰宅時間と被り、ご飯の準備がまだされてなかったのでそれを手伝い、一緒に夕食を食べた後、一息ついたところで私はあるプリントを鞄から取り出し母に渡した。

「お母さんこれ、三者面談のお知らせ」

私の手から母親の手に渡ったプリントは二枚あり、一枚目は三者面談のお知らせ、二枚目は希望日程のアンケート用紙だった。
三者面談自体は7月に入って行われるけど、都合を聞かないと日程が組めないからこの時期からアンケートをとって日程を決めることになっている。

「もうそんな時期なのね。……聞かせて、玲子は将来どんな道に進みたいのか」

居間に少しだけピリッとした空気が流れ、私は正座をして母と向き合った。

「就職をしようと思ってる。…思ってるっていうか、もう決めた。私、就職する」
「…そう。……跡部君はどう言ってるの?」
「跡部?どうして今その名前が出てくるの?」
「相談してるのかと思ったの。跡部君には言ってないの?」
「相談してないよ。私が決めた私の進路だし。跡部が口出すことじゃないでしょ」
「そうね。玲子の人生だもの。お母さんも今まで玲子の反対はしなかった。氷帝に行きたいって言った時も、バイトを始めた時も。玲子がバイトを始めてくれて助かったもの。感謝してるわ。ありがとう、玲子」
「そんなにかしこまらないでよ。バイトは私がしたくて始めたんだから」
「ねえ、玲子、勉強は楽しい?」

突然尋ねられて面食らう。バイトの話からどうして勉強の話になるの?
答えに詰まっていると、楽しい?と再度問われ、正直に頷いた。
そういえば、と思う。私はちっとも勉強をすることが苦と思ったことがなかったんだ。むしろ楽しいと思ってる。知らないことを知れて、解けなかった問題が解けていくあの感覚は爽快感すら感じるのだ。成績は落とせないプレッシャーはあっても全然苦じゃなかった。そうか。私は勉強が好きなんだ。でも、

「でも、お母さん、私は」
「玲子」

ピシャリと母の声が私の言葉を遮る。
有無を言わせない雰囲気に負けそうになった。

「うちが貧しいから、お金がないからってそういうことは今一切考えないで。玲子が高校を卒業したら進みたい道はどこなの?」
「…それは……」
「玲子が大学へ進みたいならお金だって借りる、」
「お母さん!」

遮ってお母さんを止める。
お金を借りるなんてそんなの無理だ。私はそんな無理なことをしてまで大学には行きたくない。

「もう決めたの。だからそんなこと言わないで」

その時、窓の外が一瞬光り、数秒後に雷の音が聞こえた。これからきっと、土砂降りの大雨になる。

「……玲子の気持ちはわかった。でも、きちんと跡部君と話しなさい。二人のために必要なことよ」

そう言われ、わかった、と頷いてはみたけど心の中に雲が広がっているみたいにモヤモヤが広がる感覚がした。曇天だ。今にも大雨が降り出しそう。
跡部はきっと私を心配をしてくれる。手を差し伸べてくれるってわかってるからなかなか打ち明けづらい部分もあった。
ほんの少しでもいいから跡部に近付きたいと思っていたけど、それはきっと無理な願いだ。



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