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1月も終わりに差し掛かったある日のこと。
バイトが終わり、いつものように帰宅して母親が入れてくれたお風呂に入る。寒い時期のお風呂は格別で陽気に鼻歌なんか歌っちゃったりしてみる。
灯油の価格が値上がりしたり、いろいろ家計的には大変だけど、お風呂にはちゃんと入りなさいという母親のしつけから年中滝川家ではお風呂を入れる。母曰く女の子は何時なんどきでも清潔でいなくてはならないらしく、そういうところでは片親が母で良かったと思ったりする。これが父親だったら浴槽にお湯を張るか否かで大喧嘩しそうだ。暑い日でもお風呂に入るとさっぱりするし、母親は間違ってなかった。
お風呂から上がり、部屋で髪を拭いているとふとゴミ箱に目が行った。
二つに折り畳まれたA4サイズの紙が見えてこんなの捨てたっけと疑問に思いながらその紙を摘まみ出す。
『社員旅行のお知らせ』という文字が目に入ったのでこれは母が捨てたものだとすぐにわかった。
行き先は北海道。日程は2月13・14・15日の二泊三日。なるほど。会社が半額負担でも結構な額だ。行けるわけないとゴミ箱に捨てたんだろう。参加の締切日は明日の日付になっていた。
私は少し考えて母が寝ている部屋の襖を開けた。まだこの時間なら起きてるだろうとお母さん、と声を掛ける。

「どうしたの?」

やっぱり起きてた。寝返りを打ちそれからゆっくりと母は体を起こした。私がいる部屋の明かりが眩しいらしく目を細めている。

「北海道、行ってきなよ」
「ほっかいどう?」
「行きたくない?北海道」

私の手にプリントが握られているのを見て、母はあーと唸って頭を掻いた。

「玲子、それゴミ箱から拾ったの?」
「うん」
「北海道には行きませんよ。どこにそんなお金があるっていうの」
「こんな時のために私はへそくりをしてたんだなー」

自分の箪笥の底から封筒を取り出し母に渡す。へそくりというか跡部から支払われたバイト代は結局メイク用品を買っただけであれから一銭も手をつけていなかった。お母さんのために使われるのならこのお金たちも本望だろう。なんだか自分のために使うのも気が引けるし。
中身を見て驚いている母にずっと貯めていたのか尋ねられる。微妙に違うけどうん、と頷いた。

「ね、これで北海道行ってきなよ」
「……行けないよ」
「どうして?」
「玲子、これは自分のために使いなさい。お母さんのために自分のお金を使うことはないんだよ」

なんなの、それ。お母さんのために言ってるのに、どうしてそんなに遠慮するの。
そう言いたかったけどグッと我慢した。こんなことで喧嘩したくないし、母の言うことも一理ある。けど、私は旅行に行ってほしいと思ってた。毎日仕事で疲れ切ってる母親を見てるから、せめて北海道に行ってる間だけでも家のこととか仕事のこととかを忘れて楽しんでほしい。貧乏だけど、そのくらいの贅沢ぐらい許されるはずだ。

「お願いだから行ってきてよ。娘からの些細なプレゼントってことでさ」

力強くそう言うと、遂に観念したのか母はゆっくりと頷いた。

「ありがとう玲子。行ってくるね」
「うん。楽しんできてね」

母が嬉しそうにしていたので、へそくりがあって良かったと思った。また跡部に助けられたな。




そして2月13日。母親が出発する日になった。学校に登校する私よりも遅い時間に家を出る母親に声を掛ける。

「忘れ物はないよね」
「ないない」
「お土産よろしくね、お母さん」
「はいはい。あ、玲子、火だけは気を付けてね」
「わかってるってば。じゃあいってきまーす」
「いってらっしゃい」

今日は玄関の鍵を掛けなくてもいいからそのまま家を出て自転車に跨る。

「へ、へっくっしょおんっ!」

大きなくしゃみが出てしまった。誰か私の噂でもしてるのかな。そんなことを思いながら自転車を漕ぎ学校に向かった。



忘れてた。今日が2月13日だということを完全に忘れてた。なんか学校の雰囲気が全体的にいつもと違うなぁと思っていたけど、黒板に書かれた今日の日付を見て納得した。
今日は13日。明日は14日。つまりバレンタインの前日なのだ。色めき立つのも頷ける。本番は明日だけどソワソワしてるのは男女共に共通なようで、緊張が教室全体を通して伝わってくる。
しまった。チョコの材料を買うのを忘れてしまった。今日は徹夜しないといけないかな、と思案しているといつも跡部の話をしている子たちの会話が耳に入ってきた。毎回毎回聞き耳を立てているのも忍びないけど、彼女たちの話は結構タメになったりする。
今回の話はもちろんバレンタインの話。去年も奴にバレンタインチョコを渡したらしく今年はどうしようか、という話し合いをしていた。毎年トラックが跡部邸に運ばれてるらしい、とか、跡部君はあのチョコをどうしてるのかな、とか、話し合いというか井戸端会議みたいなものだった。
そっか、そうだよね。誕生日みたいにいろんな人からバレンタインのチョコを貰うんだ。いや、でも手作りってどうなんだろう。トラックで運ばれるのなら相当な数だし、そのグループの話を聞く限り手作りも少なくないらしいし。跡部は多分、無条件でチョコを受け取ってるんだ。なら私がチョコを渡しても受け取る。その他大勢のうちの一人として。うーん、それも嫌だなぁ。まぁ跡部にしてみれば私はその他大勢のうちになるんだろうけど。
そしてあれこれ悩んだ末にバレンタインは見送ろうという結論に至った。よし決めた、チョコは作らない!

「はっくちゅん」

教室だったのでなるべく可愛らしさを意識してくしゃみをする。鼻がムズムズするなぁ。やっぱり誰かが私の話でもしてるのかな。




「へ、へっくしょんっ!」
「……風邪か?」
「いや、わりと元気だよ」
「そうだな。バカは風邪引かねぇって言うしな」
「私はバカじゃないよ!」

会長の席で仕事をバリバリこなしていた跡部に言う。本日三回目のくしゃみはお弁当を平らげ一息ついた時に起こった。

「本当に風邪なら早く俺に言えよ」
「なんで?」
「市販の薬を飲むより医者に診てもらった方がいいだろ。跡部家に仕えている医者に診せることも出来るからな」
「心強いね。でも多分大丈夫だよ。ピンピンしてるし、今まで風邪を引いても市販の薬で治してきたんだから」

やんわりと断ると跡部はそうかよ、とそれだけ言い仕事を再開させた。
あれ、反応が薄い。いけないことなんて一言も言ってないはずなんだけど。だって、今まで散々甘えてきたつもりだし、これ以上跡部の迷惑になりたくなかった。お荷物だって思われたくないし。だから遠慮したのに跡部を見ると少し不機嫌な様子だ。
私の気持ちぐらい少しは察してもいいじゃんって思うのは自分勝手な考えだけど、そう思わせてよ、跡部のバカ。




そしてあれからくしゃみは止み、やっぱり誰かが私の噂をしていただけなんだと思いながらバイトから帰宅した。自転車に鍵をかけて玄関のドアに手をかける。

「はぁーくっしょん!あーさむ」

外はやっぱりコートを羽織っていても寒い。早く中に入ってお風呂に入ろう。
ドアノブを捻りドアを開けようとしたけど一向に開かない。そうか、お母さんは社員旅行に出掛けていて誰もいないんだった。
鍵を取り出そうと鞄を開ける。

「……あれ?」

がさがさ鞄の中を探してみるけど家の鍵が見当たらない。中身を全部地面にぶちまけてみても鍵はどこにもなかった。え、うそ。制服のポケットに手を入れてみるけど鍵なんてどこにもない。
いつも私が家の鍵を閉めるから鍵を忘れたことがなかった。でも今日はお母さんが最後に家を出て……だから鍵を持ってくるのをすっかり忘れてたんだ。
最悪だ。何でこんな日に鍵を忘れちゃうのよ。跡部の言ってた通り本当はバカだったんだ、私。
はぁーと溜め息をついてドアにもたれ掛かってしゃがみ込んだ。吐いた息が白くなって宙に浮く。寒気がして体が震えた。

「はっくしょん!あーもう!」

鼻をズズーと啜る。寒いし頭がぼんやりとする。なんとなく体もだるい。私は完璧に風邪を引いてしまったんだ。
跡部に電話?ううん、さっき迷惑は掛けられないって決めたばっかりだ。これからどうしよう。街に出て朝までファミレスとかで時間を潰すか。でも制服だし絶対に補導される。学校にバレたら退学!
じゃあ朝までここで過ごす?こんな寒い中、朝まで?
それはだめだ、と頭を横に振る。風邪が悪化すれば下手したら入院ってことになりかねない。というか風邪を引いてるっていうのに頭は意外と冴えてるもんなんだな。
そんなことを考えていたらぐわんぐわんと頭が回り始めた。吐きそうなくらい気持ちが悪い。これは結構な重症かも。
制服のポケットからスマホを取り出しぎゅっと握った。
頭に思い浮かんだのは母親と跡部の姿だった。そっか、頼れるのはお母さんと跡部しかいないんだ。そう思った途端目頭が熱くなった。気が付かないうちにこんなにも跡部が大切な存在になっていってたんだ。
スマホのロックを解除して跡部の番号を呼び出す。跡部景吾の名前がこんなに頼もしいものだったとは思いもしなくて、その名前を見るだけで安心している自分がいた。自然と発信ボタンに手が伸びる。すぐに電話が繋がった。

『玲子?どうした?』
「あ、と」

うわ、喉からっから。寒いから喉もやられたのかな。

『おい、玲子!』

跡部慌ててる?声がちょっといつもと違うというか、取り乱してる感じが伝わってきた。
あはは、テンパってやんのー。でも普段冷静なのにこんなに取り乱してる跡部って新鮮で、ちょっとおかしい。
ごめんね、跡部。いつも迷惑掛けて。

「たすけて、あとべ」

もう限界、と思った瞬間意識がプツリと途切れた。



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