054
いつからだろう 夜を怖れなくなったのは
陽が高い内から図書室内に備えてあるカウチソファーに身を預け、傍目で娘を見守っていた瞼が段々とあらがえない眠りの底に落ちていった。
新しい家での目まぐるしい日々と育児による疲れが蓄積して、身じろぎ一つせず深く寝入るセトラにタオルケットを被せる──
活字を追い、自分が知らないものを吸収しようとする幼子の熱意は目を見張る。
拙い説明ではあるものの ベイも己の持ち得る知恵を振り絞り、鉛筆片手に字の読み書きをフェリシアと一緒して学ぶ。
熱中するあまり時間の経過を忘れ──所どころ線が変な方向へ飛んでる文字を何度も書き直した紙の束に、虹色クレヨンで想像力豊かに描いた画用紙が机の上にひろがる。
太陽が沈みかける頃に。庭を飛びまわり力いっぱい
獣人たちと遊んでいたフェリシアが起きているのに限界に達し。芝生に四肢を投げだし糸が切れたよう意識を手放した。
その無垢なちいさな体を腕に抱き、眠り続けるセトラの許へと寝かせ 今だけは何の悩みもなく眠りにつく母娘を静かに見つめてから図書室の扉を閉じる
夕暮れ名残りの朱が薄暗く、温度の無い藍色に染まる──
長い長い廊下を照らしていた窓から差し込む夕月が地の底へ暗く影を覆う 重くつめたい鎖が足首に絡みつく感覚を思い出しベイは鋭い鉤爪を掌の肉に食い込む程強く握り締める。
いつからか この別世界のような暖かい日常で忘れかけていた。夜はアンデッドが猛威を振るう。無力を嘆き明日をも知れない我が身で生きるか死ぬか。毎夜 命懸けだった
ざあっと冷たい風が吹いて森がざわめき 地の底から這い上がる
呻き声を獣の聴覚で察知する。
動悸が激しく耳奥で鼓動が五月蠅いくらい刻み、全身の毛が焼けるようひりつき喉笛が掠れ呼吸が苦しい。
屋敷の正面玄関を
潜り、すでに同胞たちが外で待機している
如何なる事態でも平静を保ちなさい──教鞭に立つカーリィナが幾度となく唱え続けていた教えが木霊して骨の芯にまで染み付いている──周りをじっくり一度見渡してから焦燥で凝り固まる背すじや肩の張りを両
肘を曲げて腕をかるく回し 続けて掌を広げ、握るのを繰り返し
解し メイド長には頭が下がる、と落胆含め大きく肺の底から深く溜め息を吐く。
とうとう頼みの綱は帰らず
「
領主は?」
ここまでくると最早ギャグに思える顔面蒼白で首が抜けるんじゃないかと横に頭を振るゴルドの肩を叩き、落ち着かせ励ます。慄然とした心身がじりじりと焼け付く──夜が訪れ領内に残っている
魚人は全員、南区画に住む人間たちの守りに徹してもらい。もしも、最悪の結果を想定した上で住民の避難誘導を頼んである
あの底抜けに明るい笑顔ふりまくナマエがいないというだけで、窮地に立たされるなんて夢想だにしなかった。
獣人で在りながら情けない──!この地で住み始めていやという程 味わわされた不甲斐なさを胸にベイは腹を決める
不吉を運ぶ風が
喚く方角へと一歩、また一歩 青ざめて戸惑いの色を濃く浮かべその場に立ち尽くす同胞の間を縫い、踏み出す。
狼狽の視線を注ぐ集団を抜け 今一度、同胞たちに面と向かい合い思いの丈をぶつける
「まずは集まってくれた事に礼を言う──アンデッドの恐ろしさはここにいる全員が知っている、もし
エリクシールがこのまま帰らなかったらまた夜の闇に引きずり込まれ、闘う羽目になるかもしれない」
記憶の底から呼び覚ます、視界が効かない闇夜で際限なく這い出てくる異形の怪物との
惨たらしい地獄。竦む足元を見つめ
項垂れる
獣人全員に対し
カーン・ベイディクドは
「俺は一人でも立ち向かう」
再びあの地獄へ身を投げるというのか──リーダーの言に弾かれ
獣人がはっと顔を上げる
「怯えてやり過ごすのにはもう疲れた、こんな俺にも
かけがえのないものが出来たとやっと分かったんだ」
この腕に抱いた ちいさな命。
あどけない寝顔で綺麗だった母娘。
獣人みな一人ひとりにも心当たる──何もにも代え難い思い出
亜人である自分にも飯をわけてくれた 少しの畑作業でも褒めてくる あたたかな家に招いてもらった もう会えない仲間のことを話したら血縁でもないのに涙を流した──ひ弱であっけなく死んでしまう、何とも思わなかった人間が
──生きててくれて、ありがとう
己の手を握り 頬を濡らしてそう言ってきたのだ──!
「夜が恐ろしい者は、
魚人と協力して住人たちを守りに行くのもいい。強制はしないし選ぶのは個々の自由だ」
ふいにナマエの不敵な笑みが脳裏を
過る──俺たちをこの地に迎え入れた時から アイツがやろうとしていたことはこうだったんじゃないか
「アンデッドがすぐそこまで来てる──俺が、怖いのは闇夜じゃない、大事な人を守れずに失うのが怖い。自由にも代償が伴う。俺一人の命なんてたかが知れてるが‥‥それで全員救えるなら、払う価値はある」
縛り付けていた鎖は解かれた
自分の意志に従い、ベイは誇りを取戻しアンデッドの群れへと進撃を始める。
間を置かず後ろから、草地を踏み締める足音が続く。わずかに震えてる手が先頭往く己の肩を叩いてきて、青白い顔でゴルドが膝をガクガクしながらも親指立てる。
「アンタにだけ‥カッコいい思いさせるかよ‥‥!」
一人じゃないと気付き、何だかんだ一緒に行動してきたゴルドがいつしか頼りになる相棒となったのをベイは感じ入る
怨嗟の
呻き声が深い森に反響して黒い靄が点々と散らばり地面を這うよう蠢いている、ヘドロみたく黒い靄がいびつに膨張して闇の底へと引きずり込む異形の真っ黒い腕が伸びて、もがき苦しみの慟哭を上げ影の塊は人型を形成し甲冑の亡霊が侵攻。
視覚で捉えた、眼前にアンデッドの群れが続々と湧いて鈍い歩調で襲来してくる深い森とを隔て。草原の地に総勢
獣人二十三人が陣形を組み、迎え撃つ。
今にも肺を突き破らんとする激しく鼓動撃つ心臓が煩い──ベイは、自分が皆を導く者として此処に立つ理由を再三反芻する。
自分ひとり助かりたいとは思わない。
脚は 自然に前へと
この牙は、爪は、守るために。
獣の雄叫びを上げ 疾走する本能
闘え死そのものを顕現した、黒の甲冑
亡霊へ一直線に突進して渾身の力を籠め鉤爪を振りかざす
金属に爪が引っ掻く火花と。存外、拍子抜けする程甲冑がいとも簡単に崩れ落ちバラバラになった鎧の部品が地面に散らばる
先陣きったベイと同じくして。呆気なく斃せたアンデッドの残骸を前に
獣人がひどく動転して言葉につかえる、
誰かがひと拍手するのを合図に。
不吉を呼ぶ声がピタリと止み、突然ナマエが姿を現す。
「なんだ。やればできるじゃないか」
誰かのために持てる勇気
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