009
「ほいっ」
狼男を五つ設置した医務室テントのなかの一つへ案内し、二人のみの空間で充分余りある診察場の椅子に座らせ。直ぐに桶に溜めておいた水をためらいなくぶっかける
水圧かかりまた水浸しになると思いきや 濡れた感触が一切なく。全身ぶっかけられた水が透明の膜のような感触で自身の体をすり抜け、重力に従い地面に散らされる寸前で空中で停止し、水滴が緩慢な速度でひとりでに集まり再び桶へと戻っていくではないか。
隻眼を大きく見開き何度も瞬きし、自身の負っている傷が熱さをもって徐々に癒えていくのを知覚して回復薬だと理解する。
<
清潔>
手元の桶へと戻る前に<
生命力持続回復>効果を有する霊薬の水玉と、狼男のずぶ濡れで汚れている格好に魔法掛け清める。霊薬が桶に収まり診察台のサイドテーブルに置くと、次いでコップに注いである同一の霊薬を手に狼男へ歩み寄る。
「流石にそれはまだ外せないけど、牙と舌も治そう」
猿ぐつわの格子の間にコップを傾けられ、体の隅々にまで清涼感あふれるかつての野性味を取り戻し。狼男は、幾つも思案が浮かび巡らすも口を開ける
偽装工作の役目果たし、カーリィナがナマエたちがいるテントとは別の。部下のメイドが村人を診察している場へと合流する。
老女の不調訴える脚に霊薬を染み込ませた包帯を巻いている部下に、耳打ちのささやく音量で<
念話>をつなげる。
(主人は?)
──はいカーリィナ様 ご主人様は右二つ隣りの診察場にて
獣人の一匹から情報を聞き出しております。
畜生如きがいとおしい主人の手ずから癒してもらうなど──!ドス黒い感情が湧き起るも己を律し、事前に下されている主人の命令に従事し部下とともに奉仕に努める
あぁ早く貴女様の御声を耳にしたい
この村にいる限り。万が一でも情報が洩れないようナマエの名は念話でも口に出せず、周囲警戒に準している
魚人らが機会を窺い彼らのみしか主人と念話を許されていない。
初めて。そう初めて主人とともに拠点外へともに活動出来る喜悦に、カーリィナは心から感涙にむせび泣くも肝心の御方がいなければ何の意味も無い。
主人の御姿すら見えぬこの状況に歯噛み、髪をかきむしりたい衝動を抑え拳をきつく握り締める
「あのぅ」
傍まで近付いていた声の主に気付かず、鋭く睨み返す
「ひぃッ!」
「あ──失礼を‥‥何か御用でしょうか」
何の変哲もない老人に謝罪の一礼をし、用件に耳を傾ける。
「は、はい‥っこ これをどうか、お納めください‥」
若干震えながらも献上する老人の手に、麻の布でなにか包んである小袋
「村の者らがあの御方に助けてもらったと聞きました‥‥皆にもこんな良くしてくださって、どうか!少ないですが受け取ってください‥!ありがとうございます‥‥っ!」
深々と頭下げながら差し出されるそれを主人に渡したら会話のきっかけになる。中身を確認せずカーリィナは手に取る
「畏まりました主人にお伝えします」
「ああ‥!本当にっ、本当にありがとうございますっ!」
古傷から蒸気発し、頭の天辺から足の爪先に至るまで欠けた血肉が全て右耳、顔面、右目、牙に舌、指先の爪に脚の腱の感覚を徐々に取り戻し万全の状態に回復していっていく
「さて喋れるようになっただろ。今更私たちが何者かなんて馬鹿な質問はやめてくれよ?君たちの耳ならば私の斥候たちの存在に感付いていただろう」
目の前の
魔法詠唱者──なのか。底知れぬなにかを感じさせる得体の知れぬ女に、話したいことが幾つも有る慎重に言葉を選ばなければ。
ナマエは、畏怖を治りゆく両の瞳に宿してる狼男の、最初の問いかけを心待ちする。
総ては──フェリシアと母親を救い出し。村人の男性八名をこの村に帰還させた時から開戦の狼煙は上がっていた
<永続光>の球体四つそれぞれを村人たちに分け与えてから転移魔法で帰還させ、魔法で創り出した魔力の流れ──波長とも云うべき精神的つながりを辿って自分の拠点とエストルグ村との正確な距離を測った。時間経過で自然消滅する
<永続光>だったが何てことはない、上位の転移魔法を使うに至らん。馬の足で半日かかるだけ目と鼻の先に接しているこじんまりした小さな村だ。
「ぁ あの‥‥、親子」
未だかすれ声だが聞き取れる狼男が言葉を発し
「ハーフの娘とその母親を、助けたのはお前か」
「そうとも。匂いで分かったかな?一応お風呂に入ってきたんだけど鼻も優秀さな、フェリシアと面識でも?」
「いや──母親の方に、前に一度 飯を施してもらった」
「そうか。安心していい二人とも保護して今は私の屋敷で寝かしてる」
エストルグ村の外れに隠れるように住んでいた家族。兵士どもが口々に話してた、ささやき声すら明瞭に聞き取れる耳を以て。その家族を襲撃した と。歯痒く収容所の檻のなか自身の無力さを呪った
「何故助けた」
「
かわいいからだ」
は?
「ネコ耳おんにゃの子だぞ。それこそ奇跡だ私の元いた世界では三次元にすら存在していない夢の幼女足してネコ耳しっぽたるかわいいの権化であらせられるフェリシアをどうして助けたのか?だと?それこそ愚問だ許し難しあの場にいる誰よりもかわいい輝いて母を守らんと大の男にもその小さな体で立ち向かっていたかわいいああ私は心底ほっとした屑どもの魔の手からどんな目にあっていたのかと思うと下した命令に一片の後悔もないご飯を一緒に食べれてありがとうございますかわいい生き延びてくれて苦難を乗り越え力尽きた寝顔も堪能させてもら」
「おい。」
はたと壊れた歯車の如くかわいい連呼してた女が、姿勢直し戻ってきてくれたようだ。
「大丈夫かお前」
「んんっ、いや失礼した。フェリシアとお母さんを助けた理由だっけ」
「セトラだ」
「ん?」
「母親の名だ、父親の同族がそう呼んでた」
「そうか良い名だ。理由はかわいいと──自分の心に嘘はつけなかった。これが答えだ」
あとちょっと(かなり)セレブへの恨みも込めて
確かな本心から発せられた返答に対し。渇望と嫉妬が混ざり合った悔しさが渦巻いて身悶えする。
なんでそんなこと平然と言えるんだ
この女は全てに於いて恵まれている
地位も資産も人材も 力さえ
「お前のっ、目的は」
「か弱き民を守る」
息を呑み 予想だにしなかった返答に衝撃で硬直
「ここは私の往く道を阻んでいる。私は西へずっと西へ、先へと続くその終わりに進みたいんだ」
西から風に乗って
潮の匂いがかすかにだが
確かに存在する西へ往く
「私を阻む者は誰だろうと叩いて潰す。だが村人たちは関係ない、罪なき者には移住先を設けてあるここより遥かに良い暮らしを営める私の、私たちの領地だ」
ご飯と治療にありついている村人たちにメイドたちがそれとなく伝えている。が決めるのは本人たちだがな
「この村の兵力なんぞ私の息子一人で事足りる。造作もない。容易い。言葉通りだ」
「っそんなこと、」
「出来る。そうさ出来るとも出来るからこそ私は今君の前にこうして現れ話していられる。無能な見張り番の目を掻い潜り、人間の誰にも悟られずこの施設すら容易に設置でき私たちはやって来た」
夜明け前の時刻から始まりカーリィナたちが村周囲に建てられている全ての見張り塔から、巡回する奴らに至るまで全員を眠らせておき。監視がゆるみ不審を察知したであろう
獣人の誰かがこの集落まで様子を探ってくることも想定内、種族問わぬ医療団などと耳にすれば真っ先に飛び付いてくるだろうとも。
狼男は──ただ
項垂れる
敵わぬ相手と本能的にこうべ垂れる
「そこでだ。君は命からがら収容所から抜け出してここまで来たんだろう?望みを言ってごらんよ、その勇気を讃え何でも一つ要望を叶えよう」
圧すら感じた重くのしかかる空気が一変し。四肢の感覚を取り戻し、切り落とされ失っていた自身の爪と邂逅
この女は今なんと言った
「君の願いは?」
血潮が熱を持ち
身の内を余すとこなく駆け巡る
「麻薬栽培の処分かな?あれは私も気に入らないし焼いちゃうわ。邪魔だし」
全部お見通し、か。捕虜にされると同時に薬漬けにされ、牙折られ、爪失い抗う術を根こそぎ奪い盗られた。まだ正気を保っていられる俺は運のいい方だが同族が身を落とし 奴隷畜生にされるのを黙って見過ごせる筈がない堕ちるところまで堕とされ尊厳にすら唾を吐きかけられた
「憎い」
両の瞳で女を捉え 確と告げる
「俺たちを踏みにじった糞野郎どもを八つ裂きにしたい」
「それはここの村人たちを抜いて、と相違ないか」
頷き。
「村人も俺たちと同じ被害者だ。お前の言う通りにする」
「了解した。その願い叶えよう」
不敵に笑み浮かべる女と、椅子から立ち上がり向かい合う──完全回復し傷の一切が消え失せた、久しく握れてなかった鉤爪の手を握りひらいたりする
「──っく」
「ふふ」
俯いて震えだす狼男に同調して吹きだす
「ハッハッハッハハ!」
「あっはっは!」
瞬間、鉤爪をナマエの喉元に突き出して笑いとは一変鋭い眼光で射抜く
「ここの物資を根こそぎ奪い盗って反乱を起こしてもいいんだ」
「そうはならないさ」
脅しのつもりか喉元で寸止めしている鉤爪に自ら歩を進める、突如雷が炸裂したかのようナマエの前に薄い透明な膜が鉤爪を弾き飛ばす
「
それは楽しみにとっておけ」
<上位物理攻撃無効化>──
常時発動型特殊技術が今になって作用したということは。奪うつもりだったら私と相見えた最初の瞬間からなりふり構わず暴れまわっていた筈、そうしなかった理由は未だ檻に収容されてる仲間の為下手を打つ訳にはいかなかった。狼男くんは再び檻に戻る、願いを叶える希望を土産にして
──ナマエ様 兵らが動き出しました、そちらへ徒党を組んで向かっていきます
かなり時間を稼げた
魚人たちの働きに感謝を伝え、今度は言葉で発しながら念話でも号令
「総員!全力でエスケープ!」村周囲の警戒、また炊き出しや診察していた臣下全員が一斉に動き出し。村人たちが持っている器やテント幕などカーリィナはじめメイドたちが両手を合わせ一拍手した瞬間 打ち鳴らす音とともに道具失せ、拠点の屋敷へ強制転移させる掃除魔法の一種を発動使用する。
鍋を温めていた火を消化し、炭化した蒔枝すら。医療室テント内の道具一式さえ瞬く間に消えゆく光景を前に。痺れる右手鉤爪の痛みすら忘れ
「ッ待て!」
「今夜だ」
女の告げる刻限になにを意味するのか直感で察する
「最上の場で最高の機を用意してやる」
「お前‥‥!お前の名はッ」
礼儀知らずには関心すら示さないとでも言うのか。あしらい手首だけで払いのける仕草
「カーン!カーン・ベイディクド!!」
「ナマエ・エリクシール。日暮れまでに全員の牙を研いでおけ」
<
魔法効果範囲拡大化>
<全体転移魔法>──!
痕跡残さず森林へと全力で走り行く臣下全員に
同胞識別を施しておいた──各所に散ってる我が子たちを魔法で認識捕捉しともに帰還する。
カーンの耳にナマエたちの足取りは完全に失せた。代わりに遥か後方数km先から兵士らの今更遅すぎる行軍の足音が近づいてきている
嵐過ぎ去り奇跡としか言いようのない白昼夢を見ていたのか、村人たちは満たされた心で揺れ動いている故郷に留まるか新天地へいけるのか
夢などではない間違いなく現実だ。
カーンの前に──たった一つだけ置き土産として残された小樽を、どう使うかは理解している
牙を矛け
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