甘い御守り

どうしよう、吐きそう。

…と言っても、物理的にではなく、精神的にという意味で、だ。

今日はいよいよ、大会選抜メンバーのオーディションの日。今日までの間、私は毎日必死に練習してきた…と思う。初心者の私は、やはり経験者の子に比べると圧倒的に技術が足りないと自覚していたからこそ、その差を少しでも埋めようと毎日遅くまで練習に励んでいたのだ。

ダンスや、側転やバク転を始めとしたタンブリングはもちろんのこと、声出しや笑顔なども審査項目に入っているという点が、この部活ならではの面白いところだ。やはり、笑顔のスポーツと言われているだけある。

ただ、さすがにアクロバティックな技は学校でしか出来ないので、自宅ではダンスをメインに練習をしていた。昨晩も帰宅して一通り食事などを済ませた後にリビングの窓に映る自分を見ながら振り付けの確認をしていたところ、ソファに座った愛犬がジッとこちらを不思議そうに見ていたんだっけ。

まんまるな瞳とベージュがかったまろ眉を見ると、勝手に結びつけてしまって申し訳ないとは思いつつもやっぱり古森くんを思い出してしまい、オーディション前日で少しピリリとしていた私の心は一人と一匹によって和んだのだ。

携帯の待ち受けにしている愛犬を眺めながらそんなことを思い出していると、頭上から「あれっ?苗字さんだ」という声が降ってくる。

「え?あ、古森くん」
「おはようございます!」
「おはよう。古森くんも朝練?」
「はい。あ、そうだ。お前も挨拶しろよ、聖臣」
「………ドウモ」
「お前もうちょい笑顔で挨拶とかできないの?」
「…出来ねぇのわかってて聞いてくるあたりお前性格悪いよな」
「揶揄ってるだけじゃん。あ、苗字さんすいません。こいつ、俺の同い年の従兄弟でバレー部の、佐久早聖臣です」
「あっそうだったんだね。初めまして、2年の苗字名前です。一応、飯綱くんとは仲良くさせてもらってます」
「…はじめまして」

朝練に向かう電車に乗っていたところ、途中の駅でこの待ち受けの中にいる柴犬によく似た人物、古森くんが乗車してきた。そして彼の隣には、新入生歓迎ウィークの時に見た黒髪の少年。古森くんでさえ身長が高いと思うのに、その佐久早くんという子はさらに大きくて、座っている私からしたら少し威圧感を感じてしまう。

「隣空いてるけど座らなくて平気?」
「もう着くしこのまま立っときます!ありがとうございます」
「いえいえ」

一人で座っているとどうしてもオーディションのことを考えてしまい、不安と緊張で胃のあたりがモヤモヤしていたけれど、明るい後輩によってそれがほんの少しだけ軽減された気がする。人と話していると気が紛れるし、大変ありがたい。いつもと違う車両に乗った今朝の私、グッジョブ。

そして古森くんの言う通りすぐに学校の最寄駅に着き、私たち三人は流れで一緒に向かうことになった。まぁ、目的地が同じなのにここで別行動するのもおかしな話か。

「てか苗字さん、体調悪いですか?」
「え?」
「顔色ちょっと悪いから。あとさっき胃のあたり摩ってたし」
「…今日ね、大会の選抜メンバーオーディションの日なの。それで、緊張でこの辺りが」
「あー、なるほど。…もし話してラクになるんなら、吐き出しちゃっていいですからね」

井闥山の生徒がちらほら居る歩道を三人横並びで歩いていると、古森くんは私の浮かない様子を目敏く発見してきた。年下の男の子に不安を曝け出すのはなんだか格好悪いけれど、今は少しでも自分の気持ちを吐き出して精神を落ち着かせたい思いが強い。私は彼に申し訳ないとは思いつつも、少しだけ話を聞いてもらうことに決めた。

「……私、チアって初心者だからさ、経験者の子達に比べるとやっぱり色々と劣っちゃうんだよね」
「まぁ経験の差を埋めようと思うとなかなかキツいですよね」
「うん。…けど、初心者だからって理由で諦めたくないの。最初から弱腰だと勝てるものも勝てなくなっちゃうし」
「…」
「まぁ初心者でこんな強気なこと言っておきながら、一丁前に不安と緊張で吐きそうなんだけどね。ごめんね急にこんなこと言って…」

突然こんなことを話されても反応に困るだろうな、と分かってはいたけれど、口から出る言葉は止まらなかった。しかも一人で語ってるみたいになってしまって恥ずかしい。

「それって、それだけ本気でやってるって事じゃないですか?」
「え」

けれど、生ぬるい春風が静かな音を立てて吹く中彼が発した言葉は、意外なものだった。私は思わずその発言に目を丸くしてしまう。

「本気じゃなかったら、そんな風に不安になったりしないと思います」
「…そ、そうかな」

大会に出たいという一つの目標に向かって初心者なりに練習は重ねてきたけれど、経験者だって同じように練習をしているのだ。その差は埋まるどころか、ずっと変わらない、もしくは開いてしまっているかも知れない。練習中はずっとそんな考えに囚われていた。

「あくまで俺の考えですけど。だから、苗字さんのそれは正常な感覚なんじゃないかなって、俺は思います」

初心者でも諦めたくないという気持ちと、初心者のくせに受かるかどうか不安に感じてもいいのかという気持ちの間で揺れ動いていたけれど、それが普通だと古森くんが言ってくれたことで、なんだか心にスッと一本の光が差したみたいな心地になる。

「…うん、ありがとう」
「それに、年下の俺が"一丁前に"意見出してますし?」
「!」

悪戯が成功したかのような表情で、歯を見せて笑いかける古森くんに私はハッとさせられた。…そうか、誰がどういう気持ちを抱いたって、どんな考えでいたって、良いんだ。

初心者だからとか、後輩だからとか。もちろん立場を弁えなければいけないことも時と場合によってはあるんだろうけど、これに関してはそんなこと気にする必要ない。彼は、そんな大切なことを教えてくれたのかも知れない。

「そんな苗字さんに、これあげますよ」
「…5円チョコ?」
「この間のお礼と、今日受かるご縁があるようにって気持ちです」

「まぁ今ポッケに手突っ込んだらたまたま出てきたやつなんで、最後のは後付けですけど」と、ぽんっと手のひらに置かれたのは、茶色のパッケージに五円玉を模したキャラクターが大きくプリントされた、有名なチョコレートだった。そのパッケージは至るところにくしゃりとした皺が入っていて、しばらく古森くんのポケットに入っていたことが見て取れる。しかも触った感じがふにゅりとしていることから、恐らくではあるが溶けている気がする。

「………お前そんなの渡すのかよ、もうちょいマシなのあるだろ…」
「やっと喋ったと思ったらそれかよ!!仕方ねーだろ、これしかなかったんだから」
「それなら渡さない方がマシじゃん」
「俺は何か渡したかったんだっつーの」
「フフッ…その気持ちが嬉しいよ。ありがとね、これ見て頑張る」
「え、食べてくださいよ!」
「…それが、ちょっと溶けてるっぽいんだよね」
「エ゛ッ」
「ほら見ろ」
「うわーすいません!でもそれしかないんで、それで!!」
「………あり得ねぇ」
「オイ聖臣聞こえてっからな」

どうやら古森くんは、他人の気持ちを汲み取ったりコミュニケーションを取ることには長けているっぽいのに、案外こういうところの管理は少々雑で抜けているようだ。そんなところもやっぱり愛嬌があって、馴染みやすい。ますます愛犬みたいに思えてきてしまう。

従兄弟同士の二人がまだ言い争いをしているのを隣で聞きながら、私は彼に貰った五円チョコをカバンの中に静かにしまったのだった。


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そして本日の授業が終わり、気がつけば選抜オーディションの時間がすぐそこまで迫ってきていた。

お昼休みは早めに昼食を済ませてから、明日香と二人で人がいない場所でこっそり最終確認の練習をしたし、大丈夫…なはず。

それでもやはり不安と緊張は拭い切れる訳ではないので、私は部室で着替えてからどこか落ち着かない心臓のあたりをぎゅう、と握りしめていた。けれど、ふと時計を確認すると、もうチア部専用の体育館へ移動しなければいけない頃となっているではないか。

いけない、髪の毛縛らないと。私は少し焦る気持ちで鞄の中にあるポーチを取り出そうとごそごそと漁っていると、手にはポーチではなくカサリとした物が当たる。何だろうと思いそれを取り出してみると、今朝古森くんに貰った五円チョコが姿を現した。

あぁ、そうだ。受かりますように、って彼がくれたんだった。しわくちゃな外装に、溶けてしまっている少し歪なチョコだけれど、それを見ていると私の心は不思議と落ち着きを取り戻しつつあった。

まるで、勇気を与えてくれる小さな御守りみたい。

私は手のひらにちょこんと乗っているそれをタオルの中にそっと忍ばせてから、全ての髪の毛を一気に上げて高い位置で結う。キュッと結び終えることで、いつもと違う自分になれる心地がした。

「名前、行ける?」
「うん。…頑張ろうね明日香」

そして私はタオルをぎゅっと胸に抱き寄せ、友人と共に挑戦の場へと向かったのだった。