Son de paix

「そういえば倫ちゃん、何か食べた?」
「いや、何も」
「何も??!!!!いつから?!」

名前にそう聞かれて、角名はそういえばいつから食べてないっけ、と天井を見上げながら考える。彼女に貼ってもらった冷却シートのおかげで幾分か頭がスッキリしてきたためか、少し考えるだけでその記憶はすんなりと呼び起こすことができた。

「あー…、昨日の夜から」
「え!!!??そういう大事なことは早く言ってよ!!」
「別に自ら言うことじゃないし」
「そうかも知んないけど大事な身体なんだから!」
「…うん、そうだね」

"大事な身体"。その言葉から、名前が如何に自分のことを気にかけてくれているのかがわかると、角名は胸のあたりがそわそわする感覚を覚える。確かに仮にも強豪校でスポーツをやっている身としては、三食バランス良く食べなければいけない。しかし、昨晩の角名は一刻も早く眠りにつきたかった為、睡眠を優先してしまったのだ。

全国クラスの部活が多く存在する稲荷崎高校は、角名のように県外からやって来る生徒もちらほら居るが、県内や近隣地域出身の生徒に比べると母数が圧倒的に少ないゆえに寮は存在しない。入学前、母親に「あんた絶対料理しんじゃん、学生会館とかのが良いんじゃないの?」と提案されたが、同じ学校ならまだしも他校の生徒が居る学生会館で生活をすることは、角名にとってはかなりハードルが高いもののだった。

ただ、稲荷崎高校の食堂はそういった生徒の為に、朝昼晩と食事を提供しているシステムが構築されていた。どうも話を聞く限り、寮がない代わりに、といったところらしい。角名はパンフレットで見つけたその情報を母親に話すと、「それなら安心だわ」とあっさり承諾されたので、学生専用の賃貸アパートに入居することを決めたのだ。

「食欲は?ある?」
「昨日に比べれば」
「そりゃ何も食べとらんもんね…」
「うん」
「まぁこんなこともあろうかと、食材もバッチリ買ってきたのですよ」
「ふーん」
「もうちょい興味持つなり驚いたりしてくれてもいいんじゃないかなぁ〜〜?」
「だって名前、料理は元々できるじゃん別に今さら驚かんし」
「…へへ、照れるじゃん〜」

そうはにかみながら笑う名前の表情を見て、一人暮らしを決意して良かった、と角名は強く思っていた。もし学生会館に入ってたら、「ならお雑炊とかなら食べれそう?」と首を傾げながら聞いてくる名前にも再会できてなかっただろうしな。

なんか夫婦みたいだな。

…どうやら、自分は熱によって心も浮ついているのかも知れない。角名はそんな風に感じてしまった自身をこっそりと恥じながら「うん」と返事をする。

名前は冷蔵庫に入れておいた食材をガサゴソと取り出すと、彼女は何かに気づいたのか「あっ!!!!」と大きな声を発した。

「そういや三食食堂って聞いたけど包丁とかってちゃんとある…?!」
「…一応ある程度は母さんが揃えて置いてってるはず」
「よかった〜!なら勝手に探して使わせてもらうね、出来るまで寝てていから」

いや、こんな状況で寝れるわけがないだろう。それよりも、誰に聞いたんだそんな情報。

心の中でそう恨めしく思うも、やはり口に出すことは難しくて角名は黙り込んでしまう。すると、早速雑炊作りに取り掛かったと思われる音が、キッチンから彼の耳に届いた。トントン、と包丁とまな板がぶつかり合う音なんて久しく聞いていなかった為、まるで実家に居るかのような安心感が角名の中に生まれる。

部活から帰宅すれば毎日母親が手際よく料理をする音が台所から聞こえてきていた。なんとなくそれと重なり耳を傾けていると、段々と角名に睡魔が襲ってくる。

ずっとこの音を聴いていたい。そう頭では思うのに、角名の目はスローモーションの動きのようにゆっくりと閉じてゆき、彼の世界から音が消える。

その直前、遠くで「おやすみ倫ちゃん」と言う名前の優しい声が聞こえた気がした。


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ふわり。

意識が浮上すると同時に、食欲をそそる香りが角名の鼻腔をくすぐる。加えて、カチャカチャと食器がぶつかり合うような音も聞こえてきた。

「あ、ごめん起こしちゃったね」
「…………あれ…、俺、寝てた…?」
「それはもう気持ちよさそうに」
「マジか」
「まぁちょうど良かった、お雑炊出来たんだけど、食べれそう?寝起きだけど」
「…食べる」

そうだ。名前が俺のために雑炊作るって言ってたんだった。

キッチンから聴こえていた心地良い音が角名に安らぎを与えて三十分弱。彼はすっかり眠ってしまっていた。冷却シートを貼って寝たからか、かなり体調も良くなったようだ。

すると、それを知らせるかのように角名の腹からグゥ、という空腹のサインがひとつ。

「………クッソ恥ずいんだけど」
「昨日から今まで何も食べとらんのでしょ、当たり前だよ!健康な証拠!」
「フォローされると逆に恥ずかしくなる」
「まぁまぁ。お腹空いてるみたいだし、食べて食べて!」

ベッドから起き上がりすぐ側に設置してあるローテーブルの前に胡坐をかくと、テーブルの上に、椎茸と小口切りにされたネギが入った卵雑炊が一人用の土鍋に盛られていた。湯気と共にほのかに白出汁の香りが立ち、黄色と白のコントラストが美しいそれにより、角名はより一層腹の虫が鳴るような気がした。

「いただきます」
「は〜い、どうぞ召し上がれ〜」

用意されていたレンゲで一口分掬い、ふぅっと少しだけ冷ましてから口に運ぶと、卵の優しいまろやかさが口いっぱいに広がる。具材を噛めば椎茸の香りも鼻から抜け、角名には冗談抜きで感動の嵐が吹き荒れていた。

「どう…?お口に合えば良いんだけど……」
「……うっっっま…」
「ほんと??!!!!」
「マジで美味い、え。母さんのより好きかも知んねぇ」
「やだ〜!!!照れちゃう!!!」
「っごほ、ちょ、叩くな口から出る」
「きたな!」
「いやそうさせてんの名前なんだけど」

じゃあ黙る!と言って名前は口を噤むも、口元はニヤニヤと喜びが抑えきれておらず、時々「んふふ」といった笑い声が二人の間に小さく漏れ出る。角名は、その表情が面白くて思わず本当に吹き出しそうになるも、なんとか黙々と食べ進めていき、ものの十分足らずでぺろりと平らげてしまった。

「ごちそうさまでした」
「はっや」
「それだけ美味しかったってこと」
「えへへ、嬉しい〜」

本当に美味かった、びっくりした。元から料理が出来ることは、角名は昔から知っていた。名前は物心がついた頃から料理に興味を示し、よく彼女の母親と並んで台所に立っていたのだ。あの頃はまだ覚束ない手つきだった筈なのにな。自身の知らない名前を知ることが、嬉しいような寂しいような。

「…てかさ」
「何?」
「なんでここに居るのか〜、とか、なんで家知ってんだよ〜、とか聞かないでいいの?」
「は、」

食べ終えて他愛のない会話をしていたら、角名は突然爆弾を突き落とされたような衝撃を受ける。

お前がそれを言うな、人の気も知らないで。怒りにも似た感情が沸々と角名の中に湧き上がってくる。こっちは聞きたくても聞けなくて躊躇しまくっていたと言うのに。そんな簡単に言うなよ。

けれど、どうせ彼女のことだ。そんなこと言うからには聞いてほしいってことなんだろう。と、角名は理解し、半ば投げやりになりながらようやく抑え込んでいた言葉を彼女にぶつける。

「…なんでここに、ってのはマジで思った」
「まぁそうだよねぇ」
「そもそも俺が愛知にいねぇってのも何で知っとんのって感じだし」
「うんうん」
「てか家知ってるとか下手したら警察沙汰だし」
「あはは、確かに」
「…こうやって聞いても結局答えてくんねぇし」

勇気を出して聞いてるというのに、名前は勿体ぶるように一つ一つに相槌を打つだけで答えようとはしない。角名はそんな彼女の態度に若干苛つきながらも、じとりと彼女を睨みつける。一つでも良いから答えてくれよ。そんな思いを込めて。

「情報源はね〜、全部ふーちゃんだよ」
「…は?文香?」
「そ」
「一言もそんなこと聞いとらんのだけど」
「まぁわざわざお兄ちゃんに言わんだろうね」
「……何、わざわざ新幹線か何かで来てくれたってこと」
「ハズレ!正解は車です!」
「は?」
「運転して来たの」
「どこから」
「たこ焼きで有名なところから!意外と近くてびっくりしちゃった」
「は?」

次から次へと、ぽんぽんと角名が抱く疑問を解決していく名前の一方で、角名は理解が追いつかず「は?」という言葉しか出てこなかった。瞬きをするたび、瞼の裏にハテナが浮かんでは消えない。疑問符の大渋滞が角名の中で起きており、待ってほしいと言おうとしたところで彼女はそのまま続ける。

「大学、大阪なんだよね私」
「いやいやいや…」
「でも、さすがにこれは聞いとると思った」
「何一つ聞いとらんって…、あんの野郎……」
「倫ちゃん混乱すると口悪くなる癖抜けとらんね」
「名前も話逸らそうとする癖直っとらんじゃん」
「ふふふ、お見事」

まとめるとこうだ。角名の幼馴染である名前は、高校卒業後、大阪の大学に進学し一人暮らしをしている。ここに来た理由は、彼の妹である文香とは定期的に連絡を取っており、昨晩“お兄ちゃんが熱中症で倒れたから様子を見に行ってあげてほしい”と。生憎、角名の両親は仕事が入っており、自分も部活があるから、すぐ行ける距離に居る名前に頼んだとのこと。

「私も学校夏休み中だし、今日はたまたまバイトも入っとらんかったでさ、来ちゃった」
「……来ちゃった、じゃねぇよマジで、─」

─なんで丸三年もの間、連絡返してこなかったんだよ。

そう言おうとしたところで、ぴたりと止めた。まだ、この理由を知る勇気を角名は持ち合わせていないからだ。

この問いかけはまだ心にしまっておこう。そう決めたところで、今度は小さな期待の色が角名の心をじわりと染める。…良いのだろうか、聞いても。良いのだろうか、この期待を抱いても。

「………あのさ、」
「ん?」
「…これからちょこちょこ会えたり、すんの」

恐る恐るその言葉を発した角名の声は、僅かではあるが震えていた。くそ、格好悪ぃし、情けねぇ。けれど、やはり怖いものは怖いのだ。空白の三年間。その思いに名を付けるとしたら、虚無が一番適しているから。

彼女からの返答まで、時間にしたら五秒も満たなかったかも知れないが、角名にとってはたった五秒でも心臓は大きな音を立てており、冷や汗が背筋を伝うほど緊張でどうしようもなく長く感じた。

そして、彼女は再び、普段とは違う随分と落ち着いた声で、こう告げた。

「会えるよ。…いくらでも、ね」