都会生まれコンプレックス

自分にとって、初めて一から十まで主導したプロジェクトが無事に成功してから、早いもので二週間。久しぶりに何の気負いをしなくても良い土曜日がやってきた。

イベントが無事に開催されるまでは、休みの日でもどこかソワソワと心が休まらず、常に仕事に脳を支配されていたので、ようやくゆっくりと過ごせる。どんだけ余裕なかったんだ、俺。

自分のアイデアが百パーセント採用されたバレーボール教室はと言うと、嬉しいことに大盛況で幕を閉じた。まぁ、それには高校からの仲である木兎の力がデカイかも知れないが。

人よりバレーボールに対する愛が深いことを自覚しているからこそ、この話が舞い込んできた時、"ちゃんと成功させたい"と、責任感にも似た強い感情が俺の中に生まれた。俗に言うと、やる気に満ち溢れていたのだ。

けれど同時に、"俺にちゃんと出来るのだろうか"という不安も、自身の心を蝕むように纏わりついてきた。いくら過去に沢山開催されてきたであろうイベントとは言え、自分が中心となり進めていくそれは、世界で初めてなのだ。

それに気づいてしまえば、次から次へと後ろ向きな感情が俺の中に押し寄せてきた。こんなのに負けて溜まるか、とその激しい波に攫われないよう足を踏ん張っていても、運悪く連日先方との打ち合わせや残業は重なってしまう。そうして疲労が少しずつ溜まっていき、正直何度か弱気になりかけたこともあった。我ながら、らしくないと思う。

そんな時、この件に携わってくれている上司や、つい数ヶ月前に中途入社して来た直属の部下が頑張っている姿を見ると、その弱った心は少しずつではあるが調子を取り戻していった。

特に、タメだけど部下である苗字ちゃんが、まだ右も左もわからない状態の中で必死に働いている様子は、少なからず俺の背中を押す要因になっていたのだ。

俺はなかなか忙しくて面倒を見てやれていないことが続き、上司として申し訳なく思う日々が続いた。ある日、それに関して謝罪をすると、「黒尾さんは黒尾さんがやるべきことをやって下さい」と、どちらが上司か分からないような発言をされ、ハッと気づかされたあの感覚は、俺の身体にしっかりと刻み込まれている。

…こんなんじゃ、部下に示しつけらんねぇよな。

彼女にとっては何の意図もない言葉だったかも知れない。けれど、俺がそれにどれだけ救われたか。そのたった一言が、俺の心に長く居座っていた不安を綺麗さっぱり無くしてしまったことなど、彼女はこの先知ることもないだろう。

ま、今後言うつもりもないし、それで良い。今はそれぞれのフィールドでやるべき事をやり、相乗効果が発揮されるのであれば。

そう思っていたのに、俺は簡単に彼女の守備範囲を侵してしまった。彼女は必死に、自分の力だけでなんとか乗り越えようと戦っていたのに。

イベントが間近に迫ってきていたあの日は、朝から雨が降っていた。灰色の空からしとしとと静かに降り続いていた雨は、帰る頃には何かが決壊したかのように激しい雨風となっていた。今思うと、あの日の天気は彼女の心そのものを映していたのかも知れない。

その日、俺はまた朝から外回りだった。雨の中ダルいな、と思うも仕事はそんなこと許してくれない。朝礼が少し長引いてしまい、手元の時計を確認すればもう会社を出なければいけない時間になっていたし、なんとなく一日のスタートからあまり気持ちの良いものではなかったのだ。

本当は十七時には会社に帰ってくる予定だったが打ち合わせは長引いたし、昼過ぎから徐々に本降りになってきた雨の影響で電車は遅れていたしで、俺の今日の星座占い何位だったけ、と不運を何かのせいにしたくなるほど疲れていた。

そんな疲労を抱えながら帰社して一番に視界に入ったのは、彼女の小さな背中。俺はそれを見た時、どこか泣いてしまいそうに見えたのが気になってしまい、ついお節介を焼いてしまったのだ。


―“クロってたまに面倒見良すぎるとこあるよね”

彼女の涙を目の当たりにした瞬間、俺は幼馴染に言われたこの一言を思い出した。人の為と思って取った行動が、却ってその人を苦しめることにもなる。あの時、あいつに言われてそう自覚したはずなのに、俺はどうしても彼女を放って置けなかった。その震える細い肩や、助けてと叫び出しそうに揺れる瞳を、本能的に「守らなければ」と思ってしまったのだ。

彼女を泣かせてしまった罪悪感は勿論あった。けれど、僅かではあるがようやく本当の彼女を見せてくれたような気がして、少しだけ嬉しく思ったのは不謹慎だろうか。

他の社内の人間に比べたら一番心を開いてくれている自覚はあるが、それでもいつも彼女はどこかで一本線を引いているような態度を取る。だから、俺の目の前で泣いてしまったことは彼女にとって失態だったんだと思う。脱兎のごとく逃げ出したし。

俺は、本当の彼女の一部に触れられたこの機会をなんとかして逃すまいと、直ぐに後を追った。意外と逃げ足が速くて困ったが、そこは男女の差、あと少しで会社の出入り口というところで、なんとか彼女の腕を捕まえることに成功した。

その手首を握った瞬間、細すぎて折れてしまうのではと驚愕してしまった。入社当初に比べてどこか小さくなったように見えたのは、気のせいじゃなかったのだと、こんな場面で気づいてしまうとは。彼女も残業が続いていたのは知っていたけれど、自分の余裕の無さによってフォローしきれなかったことをひしひしと実感してしまい、より申し訳なさが募る。

二人とも走った後だから少々息が上がっていて、周りには人が居ないこともあり余計にそれがハッキリと聞こえる。握ったその手首からトクトクと肌越しに伝わってくる彼女の脈は、不思議とずっと感じていたい心地がして、この状況を良い事に少しだけ強く握る。

“…もういいですから、そういうの……”

彼女から弱々しく発せられたその言葉を受けた時、俺は何も言えなかった。"これ以上、踏み込んでこないで"と言われた気がして、あぁやってしまった、と後悔の波が押し寄せる。

彼女をサポートしなければという上司としての責任ゆえに取った行動だったが、その裏には"頼ってほしい"、"甘えてほしい"というただの我が儘も隠れていた。むしろ、こっちの気持ちの方が強いかも知れない。

けれど、そんな願いは叶うことすらなく俺がそっと手を離すと、彼女は一度もこちらを振り返ることなく走り去っていった。

…あの言葉、完全に拒絶だったよな。

彼女が居なくなってじわじわとそれを痛感し、俺は「ハァ〜〜〜…」とため息をつきながら頭をガシガシと掻く。

明日から口も聞いてくれなかったらどうすればいいのだろうか。そんな不安がぽん、と生まれて、自分が思いの外ショックを受けていることに気づいた。普通なら会社の人間に拒絶の態度を取られてもこんなに落ち込まないのに、彼女にそんな態度を取られたら―、

そんなことを、土曜日である今朝ドリップしたコーヒーを飲みながら回想に浸っていた。無事にイベントは終えたけれど、それまでに色々あったな、とのんびり思い返す中でも一番印象的なあの日。俺は、自覚してしまったのだ。

―彼女にそんな態度を取られたら、立ち直れる気がしない。

彼女とその他の人間に対する自身の気持ちの差が何か、俺はそこで気づいてしまった。彼女のことをそういった対象として、好きなのだと。まぁ、その自覚のおかげで、これまでの自分の行動にも合点がいったから良しとする。

最初は、自分を警戒する態度が面白くて揶揄っていただけだった。しかし、一番仕事を共にすることが多いと、必然的に話す機会も多くなる。そんな日々を送っていく中で、段々と彼女の人となりが分かっていくのが、なんだかパズルのピースを一つ一つ埋めていくような感じがして嬉しかったのだ。

仕事ぶりは真面目で責任感が強い、といったところだろうか。それと、普段落ち着いて淡々としている割には、思っていることが意外と顔に出やすい。たまに思ってることをポロッと言ってしまう点に関しては、仕事をする上では要注意だが、彼女のそれはこれまでの経験からして俺だけにしか発揮されていない。良いんだか、悪いんだか。

あぁ、そうだ。滅多に見られないけれど、彼女の笑顔は人を魅了するところがある。それはもう、思わず目が釘付けになってしまうくらいに。例の大雨事件(とでも命名しておこう)の翌日、帰り際にバッタリ会って会話をしたあの時。俺のしょうもない発言に綺麗に笑ってくれた日。言葉を飲み込んでしまうほど、俺は惹きつけられてしまったのだ。

“久しぶりに笑った顔を見た”だなんて言ったけれど、正直ああやって心の底からの笑顔を見たのはあれが初めてだった。また新たに彼女の一面を知ることが出来て嬉しくなったのを覚えている。

就業時間外に会議なんて、有無を言わさない残業じゃねーか、と不貞腐れていた心に、蛍のように静かで綺麗な光が、ふんわりと舞い込んできたような感覚。会議を終えて帰宅した後でもそれは俺の中に残ったままで、いい気分で眠りについたくらいだ。

仕事のことを考えないでいい休みの日にこんなにも彼女のことを思い出してしまうのは、恥ずかしい話だが、相当彼女に心を囚われてしまっているからかも知れない。こんな風にグッとのめり込んでしまうのは、バレーだけだったのにな。

そうして土曜日もあと数時間で終わるという今、俺は突然無性にアイスが食べたくなり、近くのコンビニに向かっている。俺の最寄り駅と、彼女の最寄り駅のちょうど間くらいに位置する、何の変哲もないコンビニだ。

今までたまに利用させてもらっていたが、どうやら彼女の家から近いらしい。以前、彼女を送っていった際に得たその情報を思い出して、ちょっとした期待を膨らませて向かう自分は、気持ち悪いだろうか。まぁ悲しいことに、彼女の場合、俺も使うと分かったからには絶対に使っていなさそうではあるけれど。

コンビニに到着し、アイスを品定めしつつちらちらと周りを見てみるも、やはり彼女の姿はなかった。まぁ、そりゃそうだよなぁ。世の中そんな上手く出来ているなんて思っちゃいないが、薄っすらと期待をして来たからこそ、少しばかり残念に思う。

しかしコンビニを出て歩き始めたところ、彼女らしき後ろ姿が少し先に見える。らしきじゃない、あれは確実に彼女だ。そう思い俺は声を掛けようとしたが、よく見ると隣に男性が歩いているではないか。背は俺より少し低いくらいだけど、確実に日本人男性の平均よりはある。暗闇の中でも目立つピンク頭が妙に派手派手しい。

さらに驚くことに、彼女とその男は手を繋いでいるときた。いや、正確に言うと男が彼女の腕を掴んでいるのか。彼女は時々ふらふらと千鳥足になっていることから、恐らく酒に酔っているのだろう。転ばないようにとりあえず支えているだけ、というようにも見て取れるが、俺の頭の中はそんなことよりも「誰だよそいつ」という言葉が永遠に繰り返されている。

俺は、よろしくないと分かっていながらも気になってしまい、コッソリと二人の後を追う。…俺の家もこっち方面だし。断じてストーキング行為ではあるまい。そう自分に言い聞かせながら。後ろ姿だから表情は見えないけれど、たまに聞こえてくる彼女の楽しそうな笑い声は俺が聞いたことのないそれで、そうさせている隣の男を羨ましく思う。

そうして二人は彼女が住むマンション前で少し会話をし、あっさりと別れた。あのまま一緒に二人でマンションへ消えたり、熱い抱擁を交わすなどの、最悪の事態に繋がらなくて良かったと一瞬安堵するも、俺はこの現実が衝撃的すぎて動けないでいる。こちら方面に歩いて来た例のピンク頭男がすれ違いざまに不思議そうに一瞥してきたが、そんなことは気にしていられなかった。

せっかく仕事もひと段落して、のんびりとした休日を過ごしていたはずなのにな。一日の終わりがこんな締めくくりなんて、聞いちゃいねぇよ。

まるで時が止まったかのように俺が佇む一方、右手に持つコンビニ袋の中のアイスだけは、刻一刻と溶けていった。