灰とクオリア

「で?久しぶりに連絡寄越したからには奢ってくれるんだよな?」
「はい、すいません」
「転職活動するって報告以来、結局どうなったかもわかんなかったし」
「ごめんって」
「気づいたらバレーボール協会で働いてるし?」
「えぇ、まぁ、…それは事実ですが」
「俺は結構心配してたんだけどなぁ〜そうか〜、名前にとって俺はその程度の奴だったのか〜」
「!ちが、」
「ぷっ…くくっ、バーカ冗談だよ」
「……相変わらずいい性格してんね、貴大」

例の仕事のミスが黒尾さんの手助けもあってなんとか解決し、その後無事にバレーボール教室も開催された。自分にとって初めての、"バレーボールの良さを広める"ことに特化した案件。

子供たちは、経験者はもちろんのこと、未経験者であったり、お兄ちゃんがやっているからとついてきた子だったりと、様々な理由で参加してくれていた。講師として招いたのがブラックジャッカルの木兎さんという事もあり、彼を知る子供たちは大興奮だった。黒尾さんのコネほど強い味方は無い。

― “このイベントを通して、一人でも多くの子たちがバレーに興味を持つようなきっかけ作り、って言うの?そういう手助けができれば、普及者冥利に尽きるよなぁ。”

木兎さんと小さな子供たちがワイワイとバレーをしている様子を体育館の端で観ていると、隣に立つ黒尾さんがそう呟いたのを、私はしっかりと聞いていた。その表情は懐古の情に浸っており、彼がバレーを始めるきっかけも同じような感じだったのだろうか、と考えた。それを追求していいのかは分からなかったので、私は「そうですね」としか答えることができなかったのだけれど。

「しかしまぁ、まさか名前がバレーに関わる仕事選ぶなんてなぁ…」
「ちょっと、私の事どんな人間だと思ってんの」
「いや、意外だなーって思って。確かにあの頃はマネとして頑張ってくれてたけどさ、めちゃくちゃバレー好きです!って感じしなかったじゃん」
「え、バレー好きだよ私…?……まぁ、及川とか岩ちゃんほどではないけど」
「あいつらは別次元」
「ふふ、確かに」

あのイベントが終わってから、仕事はほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。けれども、何故だか私の心はずっと落ち着かないでいた。

黒尾さんが隣に居ると、何故だか胸の辺りがソワソワする現象が度々起きるのだ。職場で毎日顔を合わせるという当たり前のことでさえ、変に緊張もする。こんなこと、今まで彼に対して感じたことなかったのに。

まだ彼に謝れていないことが気がかりになっているのかも、と言う考えに辿り着いたは良いものの、あの事件から結構時間が経ってしまっている為、今さら謝るのもどうかと思ってしまう。そう思ってしまえば、一人で抱え込んでモヤモヤしているのが段々嫌になってきて、突然誰かに意見を求めたくなったのだ。

そこで思いついたのが、高校時代のチームメイトであり、旧友てある貴大だ。彼とは高校三年間クラスが同じことに加えて同じ部活動に所属していた為、バレー部の中では一番仲が良い。卒業後の進路が上京組ということもあり、学生時代はよく二人で飲みに行ったりもしていた。

けれど、社会に出てからはお互い仕事に追われるようになり、段々と会う機会も減っていき、仕事諸々に余裕が無くなってしまってからは貴大からの連絡に返事をしないことも増えていった。これに関しては本当に申し訳ないと思っている。

「ところで今の仕事はどうなの」
「んー、ようやく慣れ始めてきたってところではあるけど、楽しいよ」
「なら良かったけど、さすがに音信不通はビビるから」
「それに関しては本当ごめん」
「マジで生きてるか心配だったっつーの」
「ご心配おかけしました…」
「まぁとりあえずは元気そうで安心したわ。…っつーことで、」
「…うん、乾杯」
「ウェ〜イ、カンパ〜イ」

ゴツン、と黄金色に輝く液体が入った中ジョッキが鈍い音を立ててぶつかり合い、久しぶりの再会に盃を交わす。貴大はゴキュ、ゴキュと一気に半分くらい飲んでから「プハーッ!やっぱ夏のビールってうめぇな」と何ともおっさんクサイ感想を述べている。その口元には白い泡の髭がついていて、昔から全く変わらないこの友人の様子に安心し、私も普段よりお酒が進む。

「てか貴大は今何してんの?」
「よくぞ聞いてくれました」
「え、何」
「聞いて驚け。―…俺は今、なんと!」
「なんと?」
「無職である」
「…………そっか〜…」
「オイその顔やめろ」

すごい焦らしてくるから、起業だとか結婚だとか、その類の話が出てくるかと思ってたのに、彼からはまさかの無職という回答が返ってきた。これには正直驚いたし、ついでに言うとちょっと引いたけど、なんかその自由さが貴大らしくて良いな、と言うのが一番の感想だ。社会的に見ればあまりプラスには思われそうにない無職というワードをこんなにも堂々と言えるの、この人くらいじゃないだろうか。

「なんか、貴大らしくて良いね」
「松川にもそう言われた」
「はは、まっつん言ってんの想像つく。元気?」
「元気元気。あの貫禄も健在だし」
「なんかもっと凄いことになってそう」
「職場のマダムに気に入られちゃって仕事鬱って言ってた」
「人妻キラーってイジられてたもんね、まっつん」

一方的に自ら距離を置いて、連絡だってしばらく途絶えていたのに、貴大が変わらない態度で接してくれるのが嬉しくて、ついつい昔話に花が咲く。それに付随するかのようにお酒も食も進み、私たちは気づけば三杯目に突入していた。

「てかさ」
「ん?なに?」
「俺呼び出した本当の理由は何なの、結局のところ」
「…相変わらず目敏いね、花巻探偵は」
「見た目は大人、頭脳は普通!その名も、名探偵タカヒロ!」
「あはは!ちょ、やめっ…似てなさすぎっ…!」
「うるせ。…で?そんな名探偵に相談したいことがあるんだろ、依頼主さん?」
「う、…はい」

先程まではお互いの近況報告や思い出話と言った楽しい話題で持ち切りで、たまにこうしてふざけたりもしていたのに、急に真面目な顔してそんな風に聞いてくる貴大のことを、相変わらず友達想いの良い奴だなと思う。

彼がこうして上手く切り替えて誘導してくれなかったら、恐らく私は当初の目的を忘れていただろう。お酒の力って怖いな、やっぱり。彼に倣うように私も姿勢を少し正して、悩みの種を打ち明ける。

「どうやって話せば良いかわかんないんだけど、」
「まぁ話してみろって」
「…最近、仕事でミスしちゃってね」
「あらま」
「まぁ、そのミスは上司がフォローしれくれたおかげで事なきを得たんだけど」
「ど?」
「ミスした時、その人に八つ当たりした挙句泣いちゃって」
「おーおー、急にドラマじみるじゃん」
「真面目に相談してるんですけど」
「ごめんって」

簡潔に悩みまでの経緯を述べれば、彼は掌に顎を乗せ相槌を打ちながら聞いてくれる。そういえば学生時代、話を聞いてくれる時はいつもこの体勢だったなぁなんて懐かしみながら、話を続ける。

「その八つ当たりに対して実はまだ謝れてなくてさ」
「お前昔っからそういうタイミング掴むの下手くそだもんな〜」
「そっ…そうだけど…!」
「あれか、どうやって謝ったら良いかわかんねぇ〜的な?」
「んー、…それもそうなんだけど、仕事中その人見るとなんか落ち着かなくて」
「うん?」
「なんかモヤモヤするし、隣にいると緊張するようにもなっちゃって。今までこんなことなかったのに」
「…ほぉ〜?」
「謝るにはもう時効かなってくらい時間経っちゃってるから、謝れないってだけでこんな引きずるかなぁ〜って不思議で」

そうだ。こうして口に出してみて改めて思うけれど、今さら謝るのもおかしな話なのだ。今このタイミングで「あの時はごめんなさい」って謝っても、黒尾さんからしたら「何の事?」となり兼ねない。むしろ私が彼の立場だったら、そうなる自信しかない。

それくらい、もうこの謝罪には効力が無いのだ。そう思っていると、空になったグラスからカラリ、と氷が音を立て、まるで氷がこの考えに賛同してくれているかのような錯覚に陥る。

そこまでは分かっているのに、何故か心がスッキリと晴れないままなのが気持ち悪い。自分の頭だけじゃどうにもならないと思ったから、貴大に助けを求めたのだ。付き合いが長い彼なら、もしかしたら何かヒントになることを発見してくれるかも知れないと。

「…その上司、男?」
「ん?そうだけど」
「ナルホドな」
「え、何かわかった?」
「むしろ何でお前は分かんねーんだよ」
「ちょ、分かったんなら教えてよ。これでも結構本気で悩んでんだけど」
「俺は名前がそんな鈍い奴だとは思わんかった。…いやでもそうだな、お前って自分のことに関しては意外と鈍感だったなそういえば……」

貴大の言動からして何かに気づいたのは確かなのに、彼は先程から私に聞こえないほどの声量でぶつぶつと何かを言っている。ここまできたら、勿体ぶらないで教えてくれたって良いじゃないか。そんなに言い淀むことでもないだろうに。

「お悩み解決してよ、名探偵なんでしょ?」
「俺はたった今名探偵タカヒロの座を降りたのだ」
「ちょっと!!」
「まぁまぁ、とりあえず飲もうぜ。何飲む?」
「はぐらかさないでよ…、……杏露酒のロック」
「おっけ。俺はハイボールにしよ」

一向に教える気のない貴大にムゥ、とした顔をしてみても効果はない。せっかく今日何かしらヒントを得られると思ったのに、この感じだとしばらく教えてくれそうにないし、こうなったらヤケ酒だ。

彼が注文したお酒は直ぐに届き、私は琥珀色に染まるそれを早速クイッと喉へ送る。フルーティーで甘酸っぱいあんずの香りが鼻からふわっと抜けて気持ちが良くなる。

「貴大のけちん坊」
「もうそれで良いわ」
「教えてくれてもいいじゃんか〜〜」
「…お前それラストにしとけよ、結構酔ってきてるだろ」
「酔ってない!」
「それ酔ってる奴が言う言葉」


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「だから言ったじゃねぇか…」
「え〜?歩けてるもん、だいじょーぶだよ」
「ふらふらしながらよくそんなこと言えんな」

結局、貴大は最後まで教えてくれないままお開きの時間となってしまい、二人並んで駅までの道を歩く。最後にしとけ、と釘を刺された杏露酒がかなり効いたのか、なんだか頭も身体もふわふわしている。時たま自身の肌を優しく撫でる夜風が気持ち良く、この火照った身体の熱を冷ますのにちょうど良い。

「わ〜っ」
「あ!…ほれ言わんこっちゃない」
「ごめん、ありがと〜」
「どうせいつもみたいに家の前まで送れとか言うんだろ」
「さっすが名探偵!ご名答!!」
「ダリぃ〜」

お互いお酒を飲んでいるが、彼の顔色を見る限り今日はあまり酔っていないようだ。多分、私が酔っ払ってしまったから酔いきれなかったんだろうな、と思うと少し申し訳なくも感じる。

それにしても、こんなに酔ったのは久しぶりだ。以前会社の人たちが開いてくれた歓迎会では、醜態を晒すわけにもいかないと気を張り詰めていたからあまり楽しめなかったし。

貴大は私にとって、男女の友情ってものが成立する大切な男友達だ。こうして二人で飲みに行っても間違いが起きる雰囲気すらなく、互いが互いにそういう目で見ていないと分かりきっているからこそ、彼に対しては素直に甘えることもできるから本当に助かっている。

そして私の最寄り駅に着いたところで、「あぁ、そういえば黒尾さんにも一回だけ送ってもらったことあったなぁ」とぼんやりと思い出す。最寄り駅が一駅しか変わらないってことが発覚して、最悪だなんて思ったんだっけ。

「そういえばね、例の上司もこの辺住んでるんだって〜」
「げ。マジ?」
「マジマジ」
「最悪じゃねーかよ……」
「だよねぇ〜気が気じゃないよほんと、休みのときとか」
「俺のはそういう意味じゃねぇ」

噛み合っているようで噛み合ってないような会話をしながら、私の家まであと少しというところまできた。あ、そういえばあのコンビニ、黒尾さんもたまに使うって言ってたなぁ。それを言われてから鉢合わせないように、私は行かなくなっちゃったけど。

その一方で、貴大は私の発言を受けてから、周りをキョロキョロと警戒するように見渡してばかりいる。それがなんだか鳥みたいな機敏な動きで、酔いが回っている私はこんなことにも笑えてきてしまう。

「っふ、たかひろ、鳥みたいでおもしろい」
「お前は人の気も知らねぇで…、はい着きましたよ」
「わ〜い、ありがとね貴大」
「どういたしまして。また何か悩んだらいつでもドーゾ」
「あ!悩み!!解決してないんだけど!!!」
「はいおやすみー」
「あ、ちょっ…!」

お酒のせいで忘れていたが、そういえば何一つ解決していないじゃないか。こいつ、謀ったな?と思い貴大を突き詰めようとするも、彼はひらひらと手を振りながら去って行ってしまった。

「昔から逃げ足だけは速いんだから…ドけちバカヒロめ……」

去りゆく貴大の背中に向かってそう毒づいて、私はオートロックの鍵をカチャンと回し、覚束ない足取りで部屋へと歩いて行った。

その後ろ姿を、少し離れたところからぼうっと見つめて佇む黒尾さんには気づかないまま。