子供になればできること

―…仕事、行きたくないな。

カーテンの隙間から漏れ出る旭光を閉じている瞳越しに感じ、ゆっくりと目を開きながらそんなことを思う。昨日のバケツをひっくり返したような大雨が嘘かのように、今日はカラッと晴れていることがその眩しい一筋の光でわかる。

充電コードに繋がれ、枕元に置いてある携帯で時刻を確認すれば、起きるには随分と早い午前六時ちょうど。どうやらアラームが鳴る前に自然と目が覚めてしまったらしい。まだあと一時間は寝れるじゃん、と朝日を遮るようにリネンのブランケットを頭から被ってみるも、脳はどんどん覚醒しているようで、ぎゅっと瞑った目の奥では眼球がころころと転がっている。これは、あれだ、二度寝ができないパターンだ。

「起きるか…」

私は二度寝を試みるのを渋々諦め、亜麻色の麻のカーテンをシャッ、と開く。全開にしたことによって寝室に入り込んでくる光の量が一気に増え、真正面から浴びる久しぶりの太陽光に焼き尽くされてしまいそうだ。私の心は昨日に引き続き、土砂降りのままなのだけれど。

と言うのも、昨晩、仕事のトラブル関係で、上司である黒尾さんと衝突してしまったのだ。仕事に行きたくないと思うのも、それが理由だ。今回は百パーセント私に非があるから、余計にそう思ってしまう。

何もかもが駄目な日ってたまにあるけれど、昨日はまさにそうだった。仕事のミスは丸一日使っても何も解決しなかったし、自分に余裕がなくなって上司に八つ当たりしてしまったし。終いには折り畳み傘しか持っていなかったから、あの激しい雨風の中全身びちょびちょに濡れながら帰ったし。帰宅した頃には履いていたスカートから水が滴り落ちていて、玄関で脱ぎ捨てたくらいだ。

「どんな顔して出勤すれば良いんだろ…」

一晩寝ても引きずることはあまり無いのだけれど、なぜだか今回ばかりはモヤモヤが尾を引いていて気持ち悪い。そうだ、早起きしたおかげで時間に余裕もあるし、寝汗を流すついでこの気持ちも一緒にサッパリできるかも知れない。そう思い立った私は、昨晩使ったボディソープの香りがまだほんのり残る浴室へと足を運んだ。

そうしてシャワーを浴びたおかげか、どんよりとした憂鬱な気分は少しだけ回復したので、気持ちをリセットするには我ながら良いアイデアだった。けれど、一昨日から膠着状態にあるトラブルを早く解決しない限り、この心が完全に晴れることはない。太陽に引っ張られるかのように前向きモードに切り替えて、私はいつもより少し早めに会社へ向かうことにした。


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到着した直後、私は早速自席の隣に座っている猫背気味の背中を見つけてしまった。まだフロアの人は疎らで、部署内の人は黒尾さんと私の二人だけでなんだか無駄に緊張してしまう。神様、どうか私に挨拶する勇気をください。

「………おはようございます、」
「おはよ」

静かに自分のデスクに近寄り、普段と違って自分より下に位置するその不思議な髪型をした頭に声を掛けると、彼からはいつも通りの調子で返事が返ってきた。そのいつもと変わらない反応に、内心そっと胸を撫で下ろす。良かった、怒ってはいないみたいだ。けれど、それだけで十分なはずなのに、どこか腑に落ちないような感覚が心に引っかかる。何なんだろう、この蟠りは。

「あ、そうだ。これ」
「…えっ?」
「ここなら大丈夫だと思うから、あとで電話してみ?」

はい、と手渡された一枚のA4用紙には、都内のとある小学校の学校紹介ページがプリントされている。私はその紙を受け取り目を通すことで、瞬時にすべてを理解してしまった。…黒尾さん、私が飛び出してしまった後も開催できそうな場所を調べてくれていたんだ。左上に印刷されている"20:13"の五文字が、全てを物語っている。

雨も酷かったし、「久しぶりに疲れた」と愚痴を零してしまうくらいには疲労困憊だったはずなのに。あんなにも負担を掛けたくないと思っていたくせに、結局は彼の仕事を増やしてしまったことに、とてつもなく後ろめたさを感じる。

「すみません、ありがとうございます…」
「どういたしまして」
「小学校なんて発想…、ありませんでした」
「盲点だよな〜、俺もたまたま閃いてワンチャンありかもって思ったんだよネ」
「…流石ですね」

そう発言して、そういえばこうして声に出して彼を褒めることは初めてかも知れないな、とふと思う。けれど、この言葉には、自分にはないセンスや考えを持っている黒尾さんに対する嫉妬も含まれているのだ。

この業界での経験値が圧倒的に違うのも、人によって得意・不得意があるのも分かってはいるが、やはりどこか悔しいという気持ちが隠しきれず、苦笑いを浮かべながら放ったその褒め言葉。私の表情に気づいているのかいないのか、彼はほんの一瞬だけ何か言いたそうな表情をしたけれど、直ぐに「まぁ、頼れる上司ですから?」と軽口を叩いた。

本当そうですね、と言おうとしたところで「あれっ?!二人とも早いな〜、おはよう!」と副部長の軽快な声がフロアに響いた。どこか気まずい空気を感じていた私はそれに救われ、朝の挨拶を返す。彼もまた副部長に挨拶をした後、「出勤直後で申し訳ないんですけど、」と早速仕事の話をし始めた。上司に話をするのだから当たり前なのだけれど、くるりと自分に背を向けて話すその姿を見て、やけに彼を遠くに感じる。あぁ、そういえば昨日の事、まだ謝れていないんだった。


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「えっ、そうだったんですか…?」
「そうなんですよ〜。あ、でも確かに、今日は仮約束だから明日の電話で本契約って形にしてくれって言われた気がしますね」
「…、すみません私が聞き逃していたのかも知れません」
「あぁ、気にしなくて大丈夫ですよ!とにかく、その日はうち使ってもらっていいんで。また詳細は、明日そちらに訪問する時に決めましょう」
「はい、ありがとうございます。…それでは、失礼いたします」

カチャリ。私は受話器を置いてから、携帯とイヤフォンを繋いで話しながらキーボードをカタカタと打ち込む黒尾さんの方を見る。彼は集中しているようで、こちらの視線には気づいていない。

黒尾さんが調べ上げてくれたと言う小学校へ電話を掛けてみたところ、もう体育館を貸す前提である程度の話は付いていると言われてしまった。そんな電話の相手は、なんと彼と小学校から付き合いがあると言う友人で、今では彼らの母校であるそこで教師をしているとのことだった。話を聞いていくと、昨晩、突然黒尾さんから一本の電話が入り、事情を聴いた上で協力に応じると回答したらしい。ちなみにこの情報はたった今その友人から聞いたものであり、先程電話ではあぁ言ったけれど、そもそも私は聞き逃す以前に聞いちゃいない。

ここなら大丈夫だと思うから、って、そういう事ですか。私は彼の横顔をじっと見つめながら思う。まさか既に根回しされていただなんて。けれど、さっき彼の友人から聞いた一言で分かったことがある。多分、黒尾さんがその重要な部分をあえて教えてくれなかったのは、昨晩私が頑なに"自分でなんとかする"と言い続けていたからだと思う。

「…そんな熱烈な視線送られたら照れちゃうんだけど?」
「どうして言ってくれなかったんですか」
「あー…、やっぱりバレちゃった?」
「全部話してくれましたよ」
「あいつ…やっぱりもっと口止めしとくべきだったか」

友人に上手く口封じが出来ておらず、裏事情が筒抜けてしまったことでばつが悪そうに「ごめん」と謝る黒尾さんは、眉を八の字に下げながら笑った。彼が申し訳なく思う必要なんてさらさらないのに、そんな表情をさせてしまった事が申し訳なくて、私はちくり、と心が痛む音が聞こえた。

違う、貴方は悪くない。悪いのは私です。…今なら言える。昨晩の出来事すら謝ることができずにいた私は、意を決して「あの、」と言いかけたところに、彼の声が重なる。

「ま、とりあえずは無事解決できてよかった。ちゃんと許可取れたっしょ?」
「へ?ぁ、…はい」
「俺もちょっと介入しちゃったけどさ。ちゃんと最後まで対応できたじゃん、偉い偉い」
「…ちが、」
「よくできましたで賞ってことで、はいこれあげる」

そう言われて掌に置かれたのは、一口サイズの正方形のチョコレート。一つ何十円という、小さな子供でも買える値段設定の、昔ながらのそれ。先程までの空気がガラリと変わり全く関係ない方向に話が進んで行ってしまい、私は呆気に取られてしまった。

今、流れ的にも謝ることができるかもと思っていたのに、何故だか黒尾さんに話を逸らされてしまい振り出しに戻ってしまった。そんな彼の態度から、意図的に昨日のことを触れようとしていないのでは、という気がしてしまい、私もそれ以上は行動に移すことができなかった。


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あのまま昨晩のことを掘り返すこともなく淡々と業務をこなしていたら、早いもので定時の時刻がやって来てしまった。本当は、今日中にどこかのタイミングで謝りたかったのだけれど、生憎黒尾さんは現在会議で席を外してしまっている。

今日やるべき仕事が終わっているのに、何時に終わるかわからないそれを待つのもおかしな話か、と一人納得した私は、少々悶々としつつも帰る準備を整える。…いつになったら、謝れるのだろうか。そんな思考に囚われてエントランスへ向かっている途中、曲がり角のところで誰かとぶつかってしまった。

「すみませ、…あ」
「お。苗字ちゃん、今日はもう上がり?」
「、はい。おかげさまでキリがついたので」
「そっか、良かった」

そのぶつかった相手とは、ちょうど頭の中にいた黒尾さんだった。会議中だから今日はこのまま帰りの挨拶も交わさずに退社するばかりだと思っていたけれど、何故ここにいるのだろう。

「会議はいいんですか?」
「ちょっとお花摘みに行きたくなっちゃって」
「ぷっ!…っふふ、それ男性が使うことあるんですね」

純粋に会議は大丈夫なのか聞いただけなのに、トイレに行くことを独特の表現で暗喩するそのフレーズが、まさか男性である黒尾さんの口から出てくるなんて思ってもいなかった私は、思わず噴き出してしまった。貴婦人が使ってそうなイメージがあるその言葉と黒尾さんという組み合わせがなんだか可笑しくて、しばらくクスクスと笑っていると、その場から動こうとしない彼が目に留まる。

「どうしました?」
「、あー…、いや、久しぶりに笑う顔見れたなって思って」
「え」
「ここんとこ、苗字ちゃんずっと難しそうな顔してたっしょ?」
「…そんな自覚なかったです」
「ここに皺寄りがちだったし」

眉間にトン、と指を置いてそう指摘する彼の仕草を見て、自分も眉の間にそっと手を置く。私、そんなに小難しい顔していたのか。周りをよく見ている彼が言うくらいだから、恐らくこれは事実なんだろう。それを見られていたんだと思うと、私は途端に恥ずかしくなってきてしまい、眉間にきゅ、と皺が寄せてしまう。

「ハハッ、また寄ってるし」
「これは黒尾さんのせい」
「へいへい」

あれ、なんか気づいたらいつも通りの会話ができている。仕事中に感じていたあのギスギスした感じはなんだったんだろう、と思うくらいだ。もしかして、私が勝手にそう思い込んでいただけで、彼はあまり気にしていなかったのかも知れない。それはそれで申し訳なく思ってしまうのだが。

「じゃ、そろそろ俺戻るわ」
「あ…そうですね、すみません引き止めちゃって」
「良いってことよ。…そんじゃ、お疲れ様」
「っ、…お疲れさまです」

誰とでも交わす"お疲れ様"という言葉には変わりないのに、それを言った時の黒尾さんの笑みが、あまりにも暖かみに溢れていたものだから、咄嗟に返事が出来なかった。彼はその言葉を告げた後すぐにその場から離れたというのに、私はと言うとそこから動けないでいる。

胸の辺りからドクドクと大きな音が聞こえてきて、もう彼の姿は見えないというのに、先程の微笑みが脳裏に浮かんでは顔に熱が集まってきている。

ここ最近頭を使いすぎてしまっていたし、もしかしたら突然熱が出ているのかも知れない。こうして日の明るいうちに帰れるのは久しぶりだし、今日はゆっくり家で休んだ方が良さそうだ。…この熱は断じて、彼の表情にときめいてしまったから、ではないのだ。