綺麗事で満たして乾杯

新しい職場で働き始めて三週間、私はようやく職場の雰囲気に慣れ始めてきた。部署内の人の顔と名前は一致するようになり、働きながら感じる妙な緊張感もなくなってきて、この会社の一員だという自覚が徐々に生まれていることを実感する日々だ。

初日から薄々感じてはいたが、直属の上司である黒尾さんはやはり仕事ができる人間だった。自分の抱えている業務に加え新人である私の教育係まで任されていると言うのに、彼は疲れた顔一つさえ見せない。しかも適度に仕事を割り振ってくれるおかげで手持ち無沙汰な時間はなく、たまに挟んでくる雑談がこれまた風通しの良い環境を作ってくれるので、正直働きやすいったらありゃしない。

「苗字ちゃん、13時半からの打ち合わせの資料準備お願いできる?」
「はい。お客さんと合わせて5部でよかったですよね?」
「いや、苗字ちゃんも同席してもらうから6部で」
「…はい?」
「大丈夫、自己紹介した後はただ聞いてるだけでいいから」

今日は、そんな黒尾さん主催のバレーボール教室に関する打ち合わせの日。このような重要な案件でも、彼はきっと持ち前のプレゼン能力を発揮して打ち合わせを進めていくんだろうなと漠然と思う。そんな彼を見ていると早く一人前になりたいと言う焦りにも似た思いが生まれるけれど、残念ながらそこまで辿り着けるのはまだまだ先の先。だから今日は資料準備とお茶出しに徹しようと考えていたのに、それを打ち破るかのように突然告げられた同席の指示だ。本当、心の準備をさせてくれと初日から何度思えばいいんだろうか。

「いつも突然ですよね黒尾さんって」
「そう?」
「しらばっくれるのやめて下さい」
「聞くことも勉強の一つじゃん?」
「そうですけど…」
「まぁ気軽に聞いてくれればいいよ」
「…新人が気軽に参加するのはどうかと」
「大丈夫だって。いざとなれば俺フォローするし」

彼に対して物申してやりたいと思う機会はこの三週間で何度もあった。けれど最終的には必ず頼もしい言葉をかけてくるもんだから、私がそれらを言葉にすることはほとんどなかった。

この短い期間で彼のことを尊敬し始めたのは事実だ。けれども、その気持ちの中に実はひっそりと悔しさが居座っていることも自覚していた。これは、同い年なのに自分よりもうんと先を行っているという静かに炎を灯すライバル視に加え、いつも彼のペースに巻き込まれ上手く掌に乗せられてしまうことに起因しているのだと、薄々は気づいている。

「そろそろ準備して来ます」
「ん、ありがと。俺もすぐ向かうわ」

こういった毎回感謝の言葉を忘れない気遣いも流石である。細やかな気配りに少し嫉妬を覚えながらも、私は寂しそうにぽつんと立つ、少し薄汚れたコピー機へと向かった。


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無事に終えた打ち合わせ後、第一に思ったこと。やはり、この男はやり手である。子供相手にどうすれば楽しさが伝わるだろうかとか、どうやったらハマってもらえるのかとか、きっとこれまでの数十年、副部長たちも幾度となく企画を練ってきただろう。けれど、彼の案は今までになかった視点からの企画内容だったようで、先方側も副部長も目から鱗と言わんばかりの表情をしていた。

私はただ聞いているだけだったし、過去にどのようなことをやってきたのかも正直さっぱり知らないけれど、彼らの反応を見れば一目瞭然だった。ここまでセンスがあると、逆に恐ろしい。

「初打ち合わせ、いかがでしたか」
「黒尾さんのことを怖いなと思いました」
「なんでよ!」
「だってベテランの方々にあんな顔させてたじゃないですか」
「んー…まぁ、この仕事ってさ、大体毎年同じような内容でマンネリ化しがちじゃん?ちょっと今風にアレンジするだけでお堅い頭ほぐせるなら儲けモンっしょ」
「副部長がいないからって結構言いますね」

二人で自販機に向かって歩きながらそんな会話をしていると、コーヒー奢ってあげるから内緒にしてて?なんて首を傾げて可愛い子ぶる隣の大男。反応に困る挙動はやめてほしいと思い無視を決め込んでいると、「せめて何か言って」とほのかに羞恥心を含んだ声が聞こえてきた。恥ずかしいなら最初からしなければいいのに。

「で?コーヒーで良い?」
「自分で買いますんでお気になさらず」
「たまには素直に奢られてよ」
「奢られる理由ないので」

そう言って私はホットのカフェオレのボタンを押す。ピッと無機質な音と共に紙カップがカコンと落ちてきて、白色とこげ茶色の液体が混ざり合いながら安っぽい珈琲の香りがふわりと立った。この安っぽくてどこかノスタルジーな感じは嫌いじゃない。

「そういえばさ」
「今度は何ですか」
「今日苗字ちゃんの歓迎会じゃん?」
「…あぁ」
「お酒って結構飲めたりすんの?」
「それなりには」

突然何の話かと思えば、今晩開催される歓迎会の話だった。働き始めて慣れてくる頃がちょうどいい!と張り切る部長の意見のもと、会社近くの居酒屋で歓迎してくれるらしい。そのおもてなしの気持ちは嬉しいのだけれど、居酒屋のガヤガヤした雰囲気は苦手なので、正直なところあまり気乗りしないのが本音だ。

「まぁ苗字ちゃんがベロベロに酔ったら面白そうだけど」
「馬鹿にしてます?」
「いや、絶対そういうことないんだろうなと思って言っただけ」
「そう言う黒尾さんも酔って道路に転がったりしなさそうですよね」
「ぶはっ、道路に転がるって」

そんな他愛のない会話をしながら二人揃って片手に紙コップを持ってデスクへ戻れば、向かいに座る一歳下の男の子が「やっぱり同い年だから仲良いッスね!黒尾さんもしかしてイイとこ見せようとしてます?!」とまぁまぁ大きな声を発してきた。

居酒屋の雰囲気もそうだが、このように他人の関係性を勘繰ったりゴシップに繋げようとする人物も苦手だ。初対面にこそ感じた黒尾さんに対する苦手意識は随分薄れてきたけど、こういう事を平気で言ってくる人間は本当に得意ではないので、私は顔の筋肉がキュッと引強張るのを感じる。

「イイとこ見せようとしなくても自然と出ちゃうからね、俺の場合」
「うわ〜!さすが出来る男は違うッスね」
「そんなことより手動かしなさいよ、それ今日までだろ」
「へへ、すんません」

けれど、黒尾さんはこのような人に対しても表情を崩さず、すごく自然な流れで別の話題へ転換させてしまう。私は生憎このような処世術は持ち合わせていない為、正直助かった、と少し上がっていた肩から力を抜いた。なんだか、固く結ばれたリボンの結び目が簡単に解けたような気分だ。

「苗字ちゃん、あれ苦手なタイプっしょ」
「……そうですけど何か」
「否定しないんだ」
「本当のことなので」

私もこの人みたいに、どんな人とでも打ち解けることができたらどんなに良かっただろうか。…あぁ、今はこんなこと思い出したって何の意味もないのに。先程解けたリボンがまた絡まり合うような、そんな不穏な気持ちが顔を出す。けれど今は仕事中だ、と私はその気持ちに蓋をするようにパソコンに向き直す。その直後に「ハッキリしてるから聞いててこっちが気持ちいいわ」と発せられた彼の言葉が、この時やけに鼓膜の内側に纏わりついて仕方なかった。

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結局、あの言葉を受けてからずっと心に靄がかかっていた私は、あまり集中できずに終業時刻を迎えてしまった。ふと時計を見れば、歓迎会の時間が段々と迫っていることに気づく。なんだか静かだなと周りを見渡せば、いつもは残業をしている人たちも今日ばかりは早めにキリをつけたのか、誰一人として居ない。

「え、誰か一人くらい声を掛けてくれても良くない…?」

そんなに声掛けづらい雰囲気だったかな、と唇をゆるやかなへの字に曲げて、一人寂しく居酒屋へ向かうことにした。

「おっ来た来た」
「主役なんだから真ん中座って!」
「え、端っこで大丈夫で「まぁまぁそんなこと言いなさんな!」

お店へ着いた瞬間物凄い勢いで歓迎ムードを浴びて戸惑っていると、三人掛けの椅子のど真ん中にあれよあれよと誘導されてしまい、両隣に部長・副部長というなんとも緊張する位置になってしまった。密かに頼りにしていた黒尾さんは斜め向かいに座っていたので助けを求める目線を送ったのに、彼は口パクで「がんばれ」と言ってきた。他人事だと思って楽しんでやがるなこの人。

「苗字さん何飲む?生で平気?」
「あ、はい」
「おっいいねぇ」

やっぱり仕事終わりの一発目は生だよね!と部長が女子高生並みにキャッキャッしているのを華麗にスルーした後輩君が「すみませーん、生6つ!」とよく通る声で注文をしたのを皮切りに、宴会がスタートした。

が、しかし。その後はラストオーダーの時間はまだだろうか、とただひたすらに祈るばかりだった。お酒が入るにつれて気が大きくなるのは仕方ないが、出会って数週間しか経っていない人間の深い部分に触れようとする質問ばかりするのは勘弁してほしい。彼氏はいるのか、休みの日は何をしているのか、前の会社を辞めた本当の理由は何か、など。それらを答えたところであなた達にどんなメリットがあるんですか?と言いそうになるのをぐっと抑え、愛想笑いを浮かべながらなんとか切り抜けてきたけれど、もう限界だ。これ以上自身の情報を開示する必要はないだろう、と私は半ば無理やりトイレへと逃げる。

綺麗に清掃されたそこへ足を踏み入れた直後。鏡を見れば、そこには疲れ切った顔の自分が居た。映っていた顔にはあまりにも疲労感が現れていて、思わず苦笑いをする。

「(…私にしてはよく頑張った方でしょ)」

そう自身を褒め称えチラリと腕時計を確認すれば、お開きの時間まであと二十分。このまま姿を消して一刻も早く家に帰ってしまいたい、という思いがぶわっと溢れ出すけれど、そうもいかないのが会社付き合いというものだ。これは試練だ、と短く息を吐いてから気を引き締めトイレを出たところ、特徴的な髪型をした背の高い人物の影がゆらりと揺れた。

「すげぇ疲れた顔してんね」
「そう思うなら助けてくださいよ…」
「困りながらも頑張って対応してる苗字ちゃん見るの楽しくて」
「悪趣味…」
「ごめんって。まぁみんな満足してるっぽいし、あと少しの辛抱だから」
「…頑張ります」

本当にこの人は周りのことをよく見ているな、とこんな場面でも思う。きっとここに居るのも偶然なんかじゃなくて、私の表情に気づいてフォローしに来てくれたんだろう。つくづく世話好きの人だ。「先戻ってっから、少ししたら来な」と、周りに怪しまれないようにする為の小さな気遣いにも脱帽する思いだ。まぁ、怪しいことなんて一つもないのだけれど。

黒尾さんに言われた通り、少しだけ遅れて席へ戻った時に目に飛び込んできた光景はなかなかに酷いものだった。部長は船を漕いでゆらゆらしているわ、机に突っ伏して寝ている人もいるわ。後輩君に至ってはそれらに見向きもせずに携帯と睨めっこしていた。さっきまでの賑わいはどこへやら、たった十分弱で一変したこの静かな状況に一瞬言葉を失ってしまったのは言うまでもない。

「あの…いつもこんな感じなんですか?」
「あー、まぁそうだな。こんなだからいつも二次会はなし」

それはこちらとしては逆に朗報だけれど、みんなこんな状態で帰れるのだろうか。そんな思いを秘めていると、携帯を見終えた後輩君がお会計してきます、と身支度を整えた状態で黒尾さんに告げた。どうやら私が席を外している間に今日の会費を集めていたらしい。黒尾さんに、本当に払わなくていいのか伺うも「店の外で待ってて」と言われたので、私は素直にそのお言葉に甘えることにした。

「えー…、部長はこんなんですし、今日のところは解散で」と副部長がさらっとお開きにしてくれたおかげで、ジェットコースターのような空気の変わり方をしていた歓迎会は無事に幕を閉じた。終わった安心感からか、私の身体は突然、ずしっと何者かにのしかかられたような疲労感に襲われる。どうやら相当気疲れをしたらしい。…早く帰ろう。そう思った私は、まだ店の前に居座る上司たちに軽くお礼を告げ、足早に駅へと向かう。

ようやく一人になれたことで、心なしか先程より身体が軽い気がする。そんなことを思いながらしばらく歩いていると、足元から聞こえるヒールの音に加えてもう一つ、自分より少しだけ速いテンポの音が重なっていることに気づく。まさか、不審者?と小さな恐怖に包まれながらゆっくりと振り返った先には、小走りでこちらへ向かってくる黒尾さんがいた。え、二次会はないってさっき言ってなかったっけ。

「二次会なら行きません」
「第一声それかい」
「違うんですか?」
「違ぇよ、夜道危ないから送る」
「………今なんと?」
「家に着くまでが歓迎会でしょ」

私からの質問を華麗にスルーした彼は、歓迎会をまるで遠足とでも言うかのようなフレーズを発する。そんな子ども扱いしなくたって、そもそも私たちは同い年なのに。と言うか、この時間帯に帰ることなんて、これまでに何度も経験している。

「明るい道通りますし平気です」
「今の時代何があるかわかんないでしょうが」
「でも、」
「大丈夫、俺ん家苗字ちゃんの最寄りから一駅だから」
「げ」
「…その反応はさすがの僕でも傷つくんですケド」

先程の宴で、最寄り駅がどこかという話題になった時、逃れられなくて答えてしまったのがここに繋がるなんて。そんな、家の方向が一緒だなんてあの時言ってなかったじゃないか。上司と生活圏が近いとなると、休みの日に出かけたりすることも気を張ってしまう。どこが大丈夫なんだ、こちらとしては最悪だ。

「ま、今日のところは素直にボディガードしてもらってよ」
「…確かにそういう点では役立ちそう」
「お。やっとタメ口になってくれた」
「……今のはたまたまです」

お酒が入っていることに加え、近所に住んでいるという情報にも動揺している私は、頑なに守り続けていた敬語をうっかり外してしまった。いくら同い年でも上司は上司、と自分の中で決めていたにも関わらず、これだ。

何度も思うが、この人相手だとそんな自分ルールも簡単に崩されることが多く、なんだか調子が狂ってしまう。…だから一緒に帰りたくなんてなかったのに。けれど、そんな願いは叶わず、私たちは駅のホームに到着した電車に同時に乗り込んだ。華金だけれども健康的な時間に解散したからか、車内の乗客はまばらだ。そこでぱっと目についた空席に、どちらからともなく静かに腰掛けた。

「俺はタメ口の方が嬉しいけどな」
「変わってますね」
「その方が仲良い感じすんじゃん」
「私は上司に仲良し求めてないです」
「苗字ちゃんと打ち解けられたら仕事も上手く回ると思うんだけど」

あぁ、まただ。またこの人のペースに上手いこと乗せられそうになっている。私がノリ気じゃなくても自然とその気にさせられてしまうと言うか。彼は、不思議な魔法でも使っているのだろうか。そんな、普段では絶対考えないようなファンタジックなことを、電車のガタンゴトンという規則的な音を聞きながら考える。

「それは…一理ありますけど」
「デショ?だから、こういう時くらい砕けてくれても良いんですヨ?」
「…考えとく、……ます」
「ふ、変な日本語」

そう言って彼は普段より幾分か柔らかい表情の笑顔を浮かべる。向かいの窓越しに映るその笑みに視線が奪われてしまい、胸のあたりがトクン、と鳴る音が耳の奥深くに響いた。電車の音と重なるように脈打つその音は、彼には聞こえていないだろうか。

彼の微笑みに囚われたのも、このやけに五月蠅い心音も。全部全部、お酒のせいに違いない。私は、自身が纏うムスクにアルコールがふわりと溶けたような香りに包まれながら、そんなことを言い聞かせたのだった。