死んでも星になれない

「…離せよ」
「あら、随分つまんなくなったのね」

自分から出た声はこの寒さに負けないくらい冷えていて、内心少し驚く。そんな声を発しながら俺は自分の腕を掴むこの女を睨んだけれど、そいつはただ妖しげに笑うだけ。どうやら離す気はないらしい。

男だったら一発殴ってたかも知れねぇな。そう思うほどには、今の俺の心の中には、どす黒い感情がぐるりぐるりと渦を巻いている。

「………お前、何がしたいわけ?」
「そんなのも分かんなくなっちゃった?あの時はあんなに以心伝心だねなんて言ってたくせに」
「都合の良い記憶の捏造ドーモ」

確かに俺とこいつは元恋人だ。それは仕方のない事実。けれど、それは何年も前の話でしか過ぎない。そんな事より、せっかく名前との時間を楽しんでいたというのに、なんだってこんな最悪のタイミングで。俺、一刻も早くあいつを追いかけないといけねーんだけど。

「ねぇテツ。私、まだあなたのこと好きよ」
「…残念だったネ。その想い叶わなくて」
「わからないじゃないそんなの。あの時は確かにすれ違ったけど、今ならまたやり直せるかも知れな「あのさ」…」
「そういうの鬱陶しいだけだし、やめてくんない?つか、そもそも俺、お前とやり直す気なんて更々ねぇし」
「…何よ、あんな大人しそうでパッとしない子、テツには似合わ─!」

気づいたら、俺は目の前でべらべらと好き勝手言い放題してる女の腕を思いっきり振り払っていた。その証拠に、彼女は目を丸くして驚きを隠せていない。こいつ、名前のこと一つも知らねぇくせに、よく自分の価値観とか偏見だけで評価できるよな。聞いてるだけで心底胸糞悪いったらありゃしない。

「別に自分に似合う似合わないで付き合ってるわけでも好きになったわけでもねぇよ」
「…」
「…初めてなんだよ、こんなにもいい意味で俺の心縛る奴」

口から自然と出た言葉は、我ながら言い得て妙だなと思った。普段は割とさっぱりしている癖に、突然素直になって俺の心を掴んで離さないわ、あんなに人を信じるのが、好きになるのが怖いって言ってたのに、一生懸命に心を開こうとしてくれているわ。

言い出したらキリがねぇけど、こんなにも好きだなって思ったのは、…本当に名前が初めてなんだよな。

今日は愛を伝える日、バレンタインデーだ。だから、どれだけ俺が名前を好きか伝えようと思っていたのに。なんでこんな事になってんだよ。

「……私だってテツにずっと心縛られたまんまなのに」
「俺って罪な男」
「本当にね」
「っつーことで、わかったっしょ?お前が入る隙ねーんだわ。ゴメンネ」

そうキッパリと言い放てば、そいつは一瞬だけ泣きそうな顔をし、「私とより戻さなかったの、後悔させてやるんだから」とだけ言って去って行った。

「…いや、こんなことしてる場合じゃねぇ」

早く、伝えたい。抱きしめて、好きだと、伝えたいんだ。

焦る気持ちでスマホを耳に当てた俺は一先ず名前の家を目的地に、一目散に走り出した。


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「…ふ、っぐす……」

キンと冷え切った暗闇の中、自分の啜り泣く音だけがやけに大きく響いている。

鉄朗達から一方的に逃げてきた私は、心も身体もボロボロになりながらなんとか家に到着した。ふらふらと玄関に入ると、ルームフレグランスの瑞々しく爽やかな花の香りが私を優しく出迎える。

普段は「今日もいい香りだなぁ」くらいにしか思わないそれも、今日ばかりは私の傷ついた心にじんわりと沁み渡っていく。その優しさを含んだ香りにずっと浸っていたくて、玄関から先に進む気力も残っていなかった私は、ドアに背を預けながらズルズルとその場に座り込んだのだった。

そうして何分、この場で泣きじゃくっていたのだろう。本当だったら、今頃は鉄朗の家にお邪魔していて、キッチンに立っている筈だった。けれど私は今、彼の家ではなく自室にいる。渡す予定だったチョコレートは、綺麗な箱で着飾っていたのに薄汚れてボロボロになっていて、まるで今の私みたいだ。

「……もう今日はシャワー浴びて寝よ…」

せめて見た目だけでも、転けた時についてしまった汚れを落として綺麗さっぱりしたい。たとえ、どんなに私の心が色んな感情で汚れてしまっているとしても。

そうしてシャワーを浴び終え、フゥ…と息を吐きながらリビングへ足を踏み入れると、どこからかブーッ、ブーッ、と低く震えるような音が微かに聞こえてくる。ぐるっと部屋を見渡せば、ふと目に止まった鞄が、まるで生きているかのように揺れていた。

鞄から揺れる携帯を取り出した瞬間、私は思わずそれを落としそうになってしまう。何故なら、画面には恋人の名前が表示されていたから。"黒尾鉄朗"という、やたらバランスの良い字を見ただけで、少し落ち着きを取り戻していた心臓は再び激しく動き出すのだ。

「…、」

今は、声も聞きたくない。聞いてしまったら、私という私が崩壊してしまいそうだったから。そうなることが怖くて、私は携帯をそっと机に置いた。しばらく眺めていると小さく揺れていたそれはピタリと止んだけれど、数秒してから再び存在を主張し始める。

ディスプレイを見なくとも分かる、きっと彼に違いない。しかし今の私は、彼に合わす顔がないのだ。そもそもシャワーを浴びたとは言え、泣き腫らした顔だし。

……あの女の人のことは、良いのだろうか。

そんな不安が一度生まれると、せっかく丸くなり始めた心はまたどろりと形を変えて、刺々しい針が顔を出す。嫉妬、不安、悲哀。そんな単語を身に纏った小さなトゲたちが次から次へと生まれてきて、そんな自分がさらに嫌になる。

「…………電源切ろ」

極端と思われるかも知れないが、そうでもしないと自分を守れないのだ。今だけ、どうか許してほしい。そんな私の願いは鉄朗に届く訳もなく、携帯に手を伸ばしかけた、その時。バイブレーションだけが響く部屋にひとつ、来客を知らせる音が高く響いた。

「………、どうして…」

インターホンのモニターに映るのは、会いたくて、会いたくない彼。モニター越しだと言うのに、顔を見てしまうと、ようやくクリアになった視界がまたじゅわりと滲み出す。

応答ボタンに指をかざしながら暫くモニターの前で立ち尽くしていると、時間切れで画面がパッと黒に染まった。それが無性に切なくて、自分本位だと分かっていながらも、顔が見たいと思ってしまう。

するともう一度ピンポンと、今度は目の前から音が鳴る。そうして映し出される画面越しの恋人。今、直接会ってしまうのは、どこか怖い。けれど、やっぱり─

「……はい」
「…俺」
「……………入って、」

どうしたって、好きだと思う気持ちが勝ってしまうのだ。


---


「…」
「…」

き、気まずい。非常に気まずい。

鉄朗を部屋に招き入れるのはこれで数回目ではあるけれど、こんなにも何を話したら良いか分からない空気は、彼との間では初めてだ。

二人掛けのソファに横並びで座る私たちの間には、見えない壁があるように思えて仕方ない。なんだかそれが少し前までの私みたいで、思わず渇いた笑いが漏れ出そうになる。ここから先は来ないで、と。あんなにも思っていたのに、今はこんな壁要らないだなんて真逆のことを思っているのだから、やはり私はどこまでも自分勝手だ。

これまで、こういった空気を変えるのは、いつだって鉄朗だった。しかし、今日は愛を伝える日、なのだ。…決めたじゃないか、改めて好きと伝えるんだと。

彼に今どう思われているのか怖いけれど。どこまでも我儘で臆病な自分に嫌気が差すけれど。今、ちゃんと伝えないといけない気が、する。

「…………鉄朗、私ね、…不安になったの」
「……どんなところが?」
「鉄朗が、あの人に移ろいだんじゃないかって」
「ンなこと絶対あるわけねーだろ」
「…わかんないよ。絶対なんて……強すぎる言葉は、時には人を苦しめる事だってあるの」
「…」
「それに、ちょっとした事がきっかけで…人の気持ちって、悪い方向にも良い方向にも変わるじゃない?」
「………それは、そうだけど」

私が発する言葉は、私の過去を知る鉄朗からしたら重たいものに感じるのだろう。彼が珍しく言い淀み、口を噤んでいることはなんとなく肌に伝わる。

「だから、鉄朗があの人みたいに離れていくんじゃないかって……不安になっちゃったの」
「…うん」
「ただ、そんな事を、…まだ鉄朗に対して思ってる自分が、やっぱり一番嫌いで、」
「…何度も言うようだけど、俺はそういったところも名前だって思ってるよ」
「でもっ…鉄朗のこと、信じるって決めたのに、…まだ信じきれてなくて、ごめんなさい」
「まぁ…信じられてねーんだろうなって思うと、傷つくっちゃ傷つくけど」
「っ……ごめ、」

あぁ、やっぱりそうだったんだ。私、これまで何度も鉄朗のこと、傷つけていたんだ。それがこんなにも悲しくて、声のトーンから伝わる彼の傷心が、こんなにも苦しい。

百信じるというのは、すごく勇気のいることだ。好きなんだから信じきりたい。そう頭では思っていても、どこかで私は自分を守っていたんだ。信頼が壊れる音は、もう聞きたくないから。自分が傷つくのは、怖いから。…相手を傷つけることはしているくせに。なんて酷い人間なのだろう。

「けど、名前も傷ついてんじゃん」
「…え?」
「それに、お前を不安にさせるような俺はまだまだ未熟だなって思ったわけ」
「そ、んなことない」
「いや、俺が満足してねーの。名前に俺のこと疑う隙を与えないくらい、愛を伝えないとなって」
「…それなら、私だって」
「名前は一生懸命変わろうとしてんじゃん。その必死さ、めちゃくちゃ伝わってきて俺嬉しいし」

そう言って鉄朗の腕が私が握っている拳に伸びてきて、腫れ物に触るかのようにそっと私の手を握る。そこから伝わる温かさはいつものそれで、私は嬉しくてまた涙がこみ上げてしまう。

そうしてゆっくりと顔を上げれば、鉄朗の顔はどこか苦しそうだった。眉をゆるく下げて困ったように微笑んでる彼の表情を見ると、私まで苦しくなってしまう。

「て、つろ」
「俺さ、お前が思ってる以上に名前の事、好きなんだわ」
「…そ、うなの?」
「夏くらいからもう好きだったし」
「えっ」
「バレー以外でこんなのめり込むのも初めてだし」
「…」
「信じてもらえるかわかんねーけど、こんなに好きだって思えるの、名前が初めてなんだよ」

何度だって思う。鉄朗は、私がその時欲しい言葉を必ずと言っていいほど与えてくれる人なんだと。彼はいつも充分すぎるほど私を好きでいてくれてる。それは彼の纏う雰囲気や言葉から、なんとなくわかってはいた。

ただ、私はそれを信じて全部受け止める自信がなかなか持てなかったのだ。それを全て、私なんかが貰って良いのかと、心のどこかに不安がずっと住んでいるような。

…こんな真っ直ぐなことを言ってくれているのに、それでも私はまだ彼のことを疑うの?

そう自分に問いかけながら涙で揺れる視界で鉄朗の目をしっかりと見る。目が合うと、ふっと柔らかく細くなるその瞳に嘘偽りの色はない。目は口ほどに物を言う、なんて言葉があるけれど、今の彼は、まさにそれだ。

「名前を裏切ったりなんかしないって、ずっと側にいるって、誓う。俺は覚悟できてる」
「………っうん…」
「…信じてくれる?」

彼が放つ言葉は、私の心の棘をひとつひとつ丁寧に取り除くようなものばかりだ。勝手に不安になって、知らず知らずのうちに彼を傷つけていたのに、それでも隣に居てくれると。そんな彼を、私は、

「─…信じても、いい、?」
「フッ、……さっきからそう言ってんじゃん」

私の頬に一筋伝う涙に触れる親指でさえ、こんなにも愛おしい。彼から伝わってくる愛に触れたくて、その手に自分の手を重ねる。

「私も、…こんなに、誰かのことを想って、苦しくなったり、泣いたりするの、…鉄朗が初めてだよ」
「…」
「いつも私が欲しい言葉くれて、あり、がとう」
「うん」
「私、この先もずっと、…鉄朗の隣にいたい、よ。それくらい、っ、鉄朗のこと、…本当に、好き」
「…うん」

ずっと隣に居るために、自分のことも、少しずつ好きになりたい。胸を張って、この人の隣に立つために。そんな想いを込めて重ねている彼の手を握れば、優しく腕を引かれて彼の胸へと収められる。

「お互いある意味、最初で最後の恋、なのかもな」
「…ふふ、ちょっとクサイ台詞だよそれ」
「元気になってんじゃん」
「……鉄朗が、棘抜いてくれたから」
「何それ」
「こっちの話」

先程までの重たい空気は、お互いが気持ちを打ち明けることでどこかへ消え去ってしまったようだ。私の心も、今はもう、どんよりしていない。

「あ」
「どした?」
「ほ、本命チョコ……今、渡してもいい?」
「…」

中身がどうなってしまっているかは分からないし、ぼろぼろになってしまった外装のまま渡すのもどうかと思うけれど、形としてもきちんと彼に好きだと伝えたい。そう思って彼に伺いを立ててみるも、なかなか返事がない。渡してはいけない、のだろうか。そう疑問に思い彼の顔を覗くと、何か迷っているようだった。

「…もしかして、欲しくない?」
「なんでそーなんの名前って意外と馬鹿なの?」
「な、」
「欲しいに決まってんじゃん。けど、今じゃなくて良い」
「今渡さずにいつ渡─っ、」

私の質問は呆気なく彼の唇に消えてしまい、前にもこんなことあったなぁと頭の片隅で思う。そんな雰囲気でもなかったのに。鉄朗は私の言葉を食べてしまうのが、好きなのだろうか。

その飲み込まれた質問は、絡まり合った舌に溶けるように消失していく。それに倣うように私の脳みそも神経も溶け始め、鉄朗にぐっと押されるだけで簡単にソファに寝転んでしまった。

「っ、はぁっ…」
「今俺が欲しいのは、名前」
「…私チョコじゃないよ」
「知ってる」

腕を彼の首に回しながらそう言えば、彼はニヤリと楽しそうに笑いチュ、と軽やかに口づけを落とす。

「…Be my valentine.」
「………それってどういう意味?」
「え〜、聞いちゃう?」
「…うん、………教えて」

すると鉄朗はもう一度唇に触れ、こう言った。

“俺の大切な人になって。”