バターロールにシュガートースト

朝になったことを知るよりも先に、ふと頬に当たった氷のように冷たい空気に気がつき、私は目が覚めた。

…今、何時だろう。

携帯どこやったっけ…と思ったけれど、視界いっぱいに肌色が映り、私の脳は完全に覚醒モードに入った。確かに肌に触れる空気は真冬の凍てつく寒さであることに変わりないのだけれど、全身は布団とはまた違うあたたかさに包み込まれている。

恐る恐る顔を上げると、目を閉じて静かに寝息を立てている黒尾さんがそこにいた。あぁ、そうだ。私たちは昨日、俗に言うクリスマスデートをし、そのあと……彼の家に泊まったんだった。

彼の寝顔を見ていると、昨晩の記憶がじわりじわりと身体の内側から全身に広がっていく。まるで血が巡っていくような。いや、常に巡っているんだけれど、それを改めて思い知らされるような。

私はついに、黒尾さんを好きだと、認めた。そうだと認めるのが怖かった私に、彼は代わりに認めてくれると言ってくれて。その心地の良い優しさに触れることで、私は一歩を踏み込む勇気を得たのだ。その後、は、─…

「(いやいや何朝から思い出してんの)」

正直、身体の相性というものも、一種の冗談みたいなものだと思っていた。友人から聞いたりしたことはあるけれど、それを実感したことは、これまで経験してきた中で無かったから。

「(……こんなにも相性が良い、なんて)」

けれども、どうやらそれも冗談なんかではなく、真実だった。自分でも驚くほど気持ちが良くて、はしたない話だが"もっと繋がっていたい"だなんて、初めて思ってしまったのだ。

…駄目だ。思い出したらすごく恥ずかしくなってきた。その恥ずかしさから目を逸らすように、私は未だ寝ている黒尾さんにぎゅっと抱きつく。広い背中に手を伸ばしそこをそっと指でなぞると、私の背に回っていた彼のしっかりとした腕にグッと力が入ったのを背中越しに感じる。

「え」
「おはよ」
「…お、はようございます」

まさかと思い再度顔を上げると、黒尾さんとばっちり目が合ってしまった。寝起きにしては言動も表情もハッキリしすぎている気がするけど、もしかして。

「いや〜朝からお熱い視線で見つめられると照れちゃうネ」
「…やっぱり。起きてたんだ」
「可愛い彼女の寝顔は盗み見たいモンなの」

彼女。そうか、彼女か。改めてそう言われると、物凄く恥ずかしい。顔に熱が集まるのを感じた私はそれを見られたくなくて、もう一度黒尾さんに抱きつく。

「おやおや、甘えただねぇ名前は」
「…違います。寒いだけです」
「ふーん…じゃあ、」
「ぅわっ」

「あっためてあげよっか?」と言いながら上から見下ろしてくる黒尾さんは、やけに様になっていてなんだかムカつく。

明かりが点いていないこの薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から漏れている陽の光によって黒尾さんは逆光になっているにも関わらず、色気をたっぷりと含んだ表情をしているのがわかってしまう。嫌でも昨晩の情事を思い出してしまうから、その目はやめてほしい。

「朝から元気ですね」
「名前のおかげだけどね」
「…そりゃどうも」
「……チューはしてもいい?」

横向きに寝転ぶ私の頬をツ、とひと撫でしながら聞いてくる彼がいい意味で憎い。私が断れないこと、分かってて聞いているんだろうな。やっぱり私はどこまでも彼の手のひらの上なのだろうか。…それはなんか悔しいな。

「…嫌です」
「……そっか、」

すると、彼はスッと私の上から退いて、ベッドに座り直す。彼のことだからてっきり強引にキスをしてくるかと思ったのだけれど、予想を裏切られて私は呆気に取られてしまった。

空いた距離がこの部屋の温度のように冷たく感じてしまい、寂しい。自分からしておいて、早くも後悔するなんて。これだから素直じゃない自分が嫌いだ。

「黒尾さん、」
「…」
「……」

そうですか無視ですか。せっかく先ほどまでいい雰囲気だったのに、なんなのこれは。いや私が蒔いた種か。上半身を起こすと、黒尾さんはこちらを一瞥してそっぽを向いてしまった。そんな態度を取る彼は初めてで、私の心にはより寂しさが募る。

…嫌われたら、どうしよう。

ちょっとした悔しさから意地悪をした結果が、それに繋がる可能性だって大いにあるのに、黒尾さんなら大丈夫だといつから思っていたのだろう。自惚れにも程がある。彼の背中を見ながら様々な感情を渦巻かせていたら、視界がちいさく揺れ始めてしまった。私は彼のことになると、どうも情緒が安定しないらしい。

「っ………、グス、」
「は!?ちょ、」
「ご、ごめんなさい……」
「あ〜…ごめん。俺も意地張った」
「黒尾さん悪くない、です。……素直じゃなくて、ごめんなさい」
「フ、そうやってすぐ謝れるところ素直ジャン?」

そう困ったように笑った黒尾さんは、空いてしまった距離を詰めるように近づいてきて、その大きな身体で私を抱きしめる。この人は、本当に私を甘やかすのが上手い。彼の砂糖のように甘い優しさが体温という形で伝わってくると、不安定で揺れていた私の心が落ち着きを取り戻すのだから。

「…黒尾さん」
「ん?」
「さっきの質問…、もう一回してください」

彼に埋まるような体制のままでそう告げると、フッと彼が笑う空気を頭の上で感じる。

「名前」
「はい」
「チューし、─」
「……、答えです」
「…一本取られちまったなぁ」
「ふふ、でしょう?」

質問を言い切る前にその唇を自ら奪ってやれば、目をぱちくりとさせた黒尾さんがすぐに優しく笑うから、あぁその表情が見たかったんだ、と私もつられて笑ってしまったのだった。


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「悪い、これしかねぇや」
「大丈夫です」
「…つか、本当に良いの?俺の家なのに準備してもらっちゃって」
「良いから申し出たんですけど」
「ふ、ありがと」

ベッドからようやく抜け出した私たちは、二人でキッチンに立っていた。こうして横並びに立っていると、なんだかむず痒い気持ちになってしまう。しあわせな光景は、まだまだ慣れそうにない。

「…卵と牛乳と砂糖ってありますか?」
「冷蔵庫ん中にある。あ、砂糖はこれな」
「ありがとうございます。…そういえば今さらですけど、黒尾さんって甘いの平気ですか?」
「平気デスヨ」
「良かった」

お腹も空いたことだし何か朝食でも取ろうという話になったけれど、黒尾さんは申し訳なさそうに「食パンしかねぇ」と呟いていた。ただトーストにするだけでも私は気にしないけれど、泊めてくれたお礼もしたいし、せっかくなら少しアレンジを効かせたい。そう思い立った私は、自ら彼にキッチンを借りても良いか申し出たのだ。案の定、彼は快く了承してくれたのだけれど。

「冷蔵庫、勝手に物色していーから」
「いや…それはさすがに駄目でしょう……」
「だっていちいち聞くものダルくね?」
「でも、」
「家主が許可してんだからいーの」

「名前がごはん係なら、俺はコーヒー係〜」なんて言いながら、黒尾さんは私の足元にしゃがみ込みガサガサとキッチン棚を漁っている。普段とは違うぺたりとした髪型をこうして上から眺めるのは、なんだか新鮮だ。

「…あ、黒尾さん待って」
「んぁ?」
「コーヒー、…昨日黒尾さんがくれたやつにしません?」
「…それは名案」
「取ってきます」

頂いた物を早速使うのは少しだけ躊躇してしまうけれど、昨日黒尾さん自身も気になってたやつって言ってたし、ちょうど良い。私が寝室にあるその紙袋を手に取り直ぐにキッチンへ戻ると、彼はすでにマグカップを二つ並べていてこちらをワクワクした目で見ていた。彼が私にプレゼントしてくれた物なのに、そんな楽しみで仕方ないという目で見られたら、

「黒尾さん好きなの選んでください」
「え、いいの」
「…選びたいんでしょう」
「……バレてた?」
「ふふっ、それでバレてないって思ってたんだ」

普段大人っぽい彼がたまに見せる、子供のような態度。母性本能が擽られるとはこういうことを言うのだろう。

さて、コーヒー選びは黒尾さんに任せて、私は早速フレンチトーストでも作ろうかな、と冷蔵庫の方を振り向こうとしたところ、突然顎を掴まれ唇からリップ音がちゅ、と鳴った。

「…い、今キスするところだった?」
「名前の笑顔見たらつい」
「………さっさとコーヒー選んでください」
「たっぷり時間かけて吟味しま〜〜す」

そう言って複数のドリップコーヒーのパッケージを取り出して「へー、ハワイもコーヒー豆生産してんのか〜珍し」と呑気に話している黒尾さんを横目に、どうかこの幸せが壊れませんように、と私は願うのだった。