迷子のくせに泣かないで

「………すごく美味しい、」
「デショ」

きらきらと輝くイルミネーションを眺めながら並木道を歩いたらちょうど良い時間になっていたらしく、私たちは今、黒尾さんが予約してくれていたお店でディナーを楽しんでいる。

お店までの間、ぴたりと隙間なく握られた手は離されることなく繋がれたままだった。たまにキュ、と優しく力を込められるたびに私の心臓はドクンと音を立ててしまったので黒尾さんの方を見ることが出来なくなってしまったのだけれど、彼はそれについて特に揶揄うこともなかった。

むしろ私の緊張が移ったのか黒尾さんも口数が少なくなっており、二人の間にはほんのりと気まずい空気が生まれていたくらいだ。そんな空気を肌で感じ、早くお店に辿り着きたいような、辿り着きたくないような。そんな相反する思いで歩いていると「着きましたよ」という彼の声と同時に、パッと離れた手。

そうなることは分かりきっていたのに、無性に寂しく感じてしまったのはどうしてだろう。もっと繋いでいたかったと思ってしまうのは、どうしてだろう。私は指先に残った黒尾さんの温度を逃さないよう軽く握り拳を作りながら、彼に続いてお店へと入っていった。

「黒尾さんって本当、美味しくて雰囲気も良いお店たくさん知ってますよね」
「まぁ人脈だけは広いんでね」
「…それも才能の一つだと思いますけど」
「……ドーモ」

本当に、黒尾さんは毎回お店選びのセンスが良すぎるのだ。ちなみに今いるお店は、こじんまりとした比較的カジュアルなフレンチレストラン。どこかアットホームな雰囲気が漂っているお店で、非常に過ごしやすいのが特徴だ。

けれど、それだけでは終わらせないのが黒尾さんだった。私たちが今座っている席は窓際なのだけれど、外へ視線を向ければ、先ほどまで歩いていた並木道のイルミネーションを始めとした夜景が窓いっぱいに広がっているのだ。和やかで暖かい雰囲気の中に、ちょっとしたロマンチック要素も忘れないあたり、流石としか言いようがない。

ゆったりと流れる時間に、煌びやかな夜景。そんな景色を眺めていると、心が穏やかにまぁるくなっていくのを感じる。映画も面白かったし、あのイルミネーションも綺麗だったなぁ、と今日一日の出来事を振り返っていると、「あ」と黒尾さんが何かを思い出したかのようにゴソゴソと鞄を漁っている。

このタイミングで何をしてるんだこの人は、と不思議に思っていると、目の前にずいっと渡されたのはクリーム色をした紙の袋。なにこれ。

「何ですかこれは」
「んー、クリスマスプレゼント的な?」
「……………はい?」
「大した物じゃねーけど。苗字ちゃん、コーヒー好きっしょ?なんかちょっと良いコーヒーが飲み比べできるらしいし、あげる」
「…ぁ、りがとうございます、」

そう言われてその紙袋を受け取ると、黒尾さんは満足そうに「俺も気になってたやつなんだよな〜飲んだら感想教えてネ」なんて頬杖をつきながらしてやったりの笑顔を浮かべていた。クリスマスプレゼントを、貰ってしまった。まさかこんなことをされるだなんて予想していなかった私は、狼狽えながらそうっと鞄が入っている籠へと紙袋を置く。

「(……黒尾さんも用意してるのはさすがに予想してなかったんですけど)」

そう、実は私も、彼にちょっとしたプレゼントを用意していたのだ。クリスマスプレゼントと言うよりかは、誕生日プレゼント…って意味で買った物なのだけれど。実は一ヶ月ほど前にすでに購入していたが、会社で渡すのは勇気が足らず、いつ渡そうかと考えていたらここまできてしまったのだ。

いつも忙しいのに私のフォローもきちんとしてくれる、そんな彼にぴったりだなと思った、ちょっと良いお値段のするボールペン。対談や打ち合わせで書き作業が多いから、身嗜みにも良いかなと選んだけれど、大丈夫だろうか。

「あ、あの」
「ん?どした?」
「………、これ…」
「ハ、」
「ご…ごめんなさい。これクリスマスプレゼントって言うよりかは、遅れた誕生日プレゼントって感じになっちゃうんですけど、……えっと、」
「…」
「中身はボールペンです。ボールペンかよって思うかも知れないんですけど、ちょっと良いやつみたい、なので……よかったら…」
「…………ありがと、すげー嬉しい」

丁寧にラッピングされたその小さな箱は、黒尾さんの手にしっかりと渡る。彼はそれを鞄の中へしまってもなお口元がずっと弧を描いていたので、どうやら喜んでくれているようだ。安心。

「よし。家に飾ろ」
「え、ちょっと。日常的に使ってくださいよ」
「こんなん、勿体なくて使えないでしょーが!」
「そんなこと言うなら返してもらいます」
「イヤデス」
「…ふふっ、だからむくれても可愛くないですってば」


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「さ、さむっ………」
「まぁ12月だからな」
「よくマフラーなしで平気ですね黒尾さん…」
「ボク、心と同じくらい体もあったかいんで」
「…」
「苗字ちゃん無視しないで黒尾さんでも傷つくことくらいあるのよ」

今日は、私たちは二軒目に行くわけでもなく真っ直ぐ帰路についていた。レストランで食事やお酒、そして夜景なども楽しんだら、なんだか満足してしまったからだ。

それにしても、寒い。夕方ごろは一旦落ち着いていた風は目覚めてしまったのか、また冷たい北風が私たち二人に強く当たっている。私が寒くて震え上がっている隣で、黒尾さんはマフラーも巻かずに割と平気そうな顔をしているし、本当に体温が高いのだろう。

「………そんな寒いなら、ん」
「…、ぇ」
「俺の体温分けたら苗字ちゃんも多少はあったかくなるんじゃね?」
「…それ自分で言って恥ずかしくないんですか?」
「はいそんな意地悪言う子は強制デース」

そう言って黒尾さんは、私の左手をいとも簡単に掬い上げては握る。私も断るつもりはなかったけれど、差し出された大きな掌に自ら手を伸ばしてしまったら後戻りできない気がして、またしても可愛くないことを言ってしまった。

私の彼に対する気持ちは、もう、好き…なんだと思う。それなのに臆病者の私はやはり、その気持ちを認めるという一歩を、まだ踏み出せないでいる。

そりゃこんな事をされてしまったら、期待をしてしまうのが正直なところだ。けれど、もしかしたら誰にだってこうなのかも知れない。私は黒尾さんを信頼しているはずなのにどうしてもそういう考えが浮上してしまうのは、やはり過去のトラウマがあるからだろう。

信じたいのに、百パーセント信じて良いのか、わからない。そんな中途半端で後ろ向きな自分のことが、嫌いでたまらない。

「え。マジで冷てぇじゃん、手」
「だから寒いって言ってたじゃないですか…」

ただ、せっかく繋いだ手だけれども、すぐそこに私のマンションが視認できるほどに、クリスマスデートの終わりは刻一刻と近づいてきている。このぬくもりも、あと数分したらおさらばだ。…せっかく温かくなってきた左手もすぐに冷たくなってしまうのであれば、

「…繋がなければ良かったのかな」
「…」
「っ、すいませんそういう意味じゃなくて…!」
「………苗字ちゃん、右手も貸してくれる?」
「へ?右手、ですか?……どう、わっ?!」

ぐるぐると自問自答していたことが、どうやら口に出てしまっていたらしい。気づいた時にはもう遅く、必死に弁解しようとした矢先、突然の出来事によって私の思考回路は完全に停止状態となった。

黒尾さんがピタッと歩みを止めたから何かと思えば、繋いでいない方の手も差し出してほしいと。理由もよくわからないまま彼におずおずと掌を向けると、差し出した方の手首を思いっきりグイッと引っ張られ、バランスを崩した私は彼の胸へとダイブしてしまったのだ。私の左手は彼の右手にしっかりと握られたまま。

黒尾さんとの間にあった距離がゼロになったことを理解するのに、何秒かかっただろう。分からないけれど、目の前に広がる黒色は紛れもなく彼が着ているセーターである。

それを理解してしまえば、途端に私の心臓はドクドクと五月蝿く鳴り出した。…と、とりあえずこの距離は離さないとまずい気がする。そう直感で思い慌てて顔を離そうとしたのに、彼の左手が私の後頭部をやんわりと掴みもう一度胸元へと引き寄せたので、再び彼との距離が無くなってしまった。

「っ、…ぇ、あの」
「……」
「…く、くろおさ…」
「………本当にそう思ってる?」
「え…?」
「繋がなければ良かったって、…本当にそう思ってんのかなーって」
「!」

どうして。どうしてそんなに弱々しい声なんですか。いつもの、力強くもどこか落ち着くような声は、どうしたんですか。

いつもの黒尾さんからは想像もつかない程の細く小さな声がポツリ、頭の上から降ってきた。ただ、彼にその声を出させているのは、この状況からして私しかいない。

それが苦しくて、何故だか私が泣きそうになってしまう。違う、私はあなたにそんな声を出してほしかったんじゃない。それに、繋がなければ良かっただなんて─、

「─………て、ない…」
「…ん?」
「思って、ない。そんなこと、…全く思ってない、です」

黒尾さんの胸に押さえつけられたままだから彼に上手く届いているかはわからない。けれど、これだけはきちんと否定しないと、彼がサラサラと砂のように消えていってしまいそうな気がする。そんなの、嫌だよ。

「繋がなければ良かったって言うのは、…その、すぐお別れなのに手繋いだら、離れがたくなっちゃう、から……」
「─、」
「だから、繋がなかった方が、…簡単におやすみって言えたのになって……ごめんなさい、何…言ってるんでしょうね」

ずっと抑えてきた言葉たちは、ひとつ口から零れると次から次へとぽろぽろ出てきた。突然こんなこと言われたら黒尾さんを困らせるだけだと分かっているのに、止められなかったのだ。もしかしたら、ありとあらゆるところから伝わる彼の熱が、私の心を溶かしてしまっているからかも知れない。

「…苗字ちゃん」
「………な、なんでしょう…」
「、ちょっとごめんな」
「え?……!!!」

黒尾さんはようやく口を開いたかと思えば、繋いでいた手を離して、私のことをぎゅうっと抱きしめてきた。ゼロ距離をマイナスにするみたいに強く強く抱きしめられてしまい、正直ちょっと苦しい。でも、何て言えばいいんだろう。苦しいけれど、苦しくないような。

そんなことを思いながら、行き場を無くしてしまった手を空で彷徨わせていると、ふいに耳にドクドクと、少し速めに脈打つような音が聞こえてきた。

「…聞こえる?」
「はい…黒尾さんの、心臓、ですよね」
「そ。すげードキドキしてんの」
「…」
「これ苗字ちゃんがさせてんだけど」
「わたし、ですか」
「ウン」
「………どうして、ですか」

黒尾さんは一瞬黙り込むと、抱きしめていた腕をするりと解き、私の手を優しく包み込んでは視線を絡め取ってきた。どうしよう、何も言わないでも、伝わってきてしまう。

「好きだからだよ」
「っ─…」
「…だから、すげぇドキドキすんの」
「…」
「苗字ちゃんは?…ドキドキした?」
「、………もう、ずっとドキドキしてます、よ」

そう、いつからだったかは明確ではないけれど、気づけばいつも私は黒尾さんにドキドキさせられていた。それを彼のように、"好きだ"と認めたいのに。

「けど、どうしたらいいのか、わかんないんです」
「…」
「黒尾さんのこと、信頼してるって言うのは本当のこと、です。けど、どこかでやっぱり、信じきれてない自分がいて」
「うん」
「信じ、たい。…のに、怖いんです。そんな人だって思ってるわけじゃないのに、どこかで疑ってる自分が、きらい」
「良いんだよ、そうなるのが普通だろ」
「っ…なのに、そう思ってるくせに、黒尾さんと手を繋いだとき、離れたくないって、思っちゃって」

この気持ちが何だか分からないほど、私も子供じゃない。ただ、それを口に出してしまったら。言葉にしてしまったら。本当に後戻りできないのだ。あの時付き合っていた彼のことは、ちゃんと好きだった。けれど、こんな風にずっと心臓がうるさくて、最近では黒尾さんのことを思うたびに泣きそうになって心がぐちゃぐちゃになる。私を私じゃなくさせるのは、今目の前に立っている人物が初めてなのだ。

「…苗字ちゃんはさ、」
「、はい」
「…俺のこと好き?」
「─っ…、」
「俺は好きだよ。…名前ちゃんのこと」
「……それは、…信じても、」
「いい。…信じてほしい。俺のこと」
「…黒尾さ、」
「名前ちゃんはさ、疑い深くて臆病な自分のことが嫌いだって言うけど。俺はそういったところも含めて好きなんデス」
「─!」
「名前ちゃんが認めらんないってんなら俺が認める。つか、そういうところも引っくるめて名前ちゃんだし」

何回思えばいいんだろう。どうしてこの人は、私が欲しい言葉がわかるのか、と。私の中の私が嫌いな部分を、好きだと言ってくれて。私が認められない部分を、代わりに認めると言ってくれて。でも、それではダメなのだ。

「…認めるのは、私じゃないと意味ないです」
「まぁそうなんだけ「…好き。」……」
「好きです。…私、黒尾さんのこと、多分…、すごい好─っ」

あぁもうどうしてこんなにも黒尾さんがぼやけて見えるのだろうか。ちゃんと彼の目を見て告げたいのに、私が見えてなければ意味がないじゃないか。

けれど、一度言葉に出してしまえば。黒尾さんを好きだと認めてしまえば、心が軽くなると思ったのに、どうしてこんなにも苦しいんだろう。

「黒尾さんのこと好き、です。…っ、なのに、なんでくるし─、!」
「…、もう分かったから。それ以上はストップ」
「っふ、ぅ…!」

人を好きになることって、こんなにも苦しいものだったっけ?あんなに怖いと思って、人を信じきれずに生きてきたのに、黒尾さんと出会ってからは、胸がキュッて締め付けれらてずっと苦しい。

まるで心臓を操られているみたい。そんな心地になっていると、黒尾さんがその長い腕で私を優しく包み込んでくれた。そしてそのまま、私の背中をぽんぽんと、赤ん坊をあやすように一定のリズムで叩いてくれることで、随分と呼吸がしやすくなる。

「………落ち着いた?」
「はい…。…私、こんなに誰かを想って泣くの、初めて、なので……それも怖い、けど」
「ちょ、名前ちゃん」
「私、自分で思ってる以上に、黒尾さんのこと、」
「こーら。俺、ストップって言ったよな?」

そう言って黒尾さんはその長い人差し指を私の唇にそっと置き、言葉の先を紡げないようにする。するとその指は徐々に頬へと移動していき、今度は親指が唇に触れた。

それは今、私の唇の形を確かめるようにゆっくりとなぞっている。その動きに私は背中がゾワっとしてしまい恐る恐る黒尾さんを見上げると、ゆるやかに口角を上げている彼と目が合い、彼はふっ、と鼻から柔らかく息を出して笑った。

そして私の目尻に溜まった涙を拭って一言。

「……まだ離れ難いって、思ってる?」
「…はい。……私まだ、黒尾さんと一緒にいたい」
「俺も」

彼がそう言ったのを合図に、静かに目を閉じる。そうして唇に伝わった温かさに、私はまた、涙を零した。