サンタさんはもう来ない

「……おかしくない、かな…」

洋服に付いた埃はないか、化粧は崩れていないか。全身鏡の前に立ってからもう何分そうしているか分からないほど、私は入念にチェックを行っていた。

友人に会う時ももちろん同様の動作を行うけれど、今日はどうにも、いつも以上に細かく確認を行ってしまう。と言うのも、……今日は黒尾さん曰くクリスマスデートだからだ。あぁ、改めて言葉にするとどうしてこんなにも恥ずかしいのだろうか。

先月神奈川へ出張した際の目的は、黒尾さん主導の新企画の話を進める為だった。インターネット社会の昨今、某動画サイトを通じてバレーボールの面白さを知ってもらおうと、新しい目線から発足したプロジェクト。そのような企画に最適そうだと判断されたのがまたしても木兎さんだった為、直接打ち合わせをしようと赴いたのだ。

試合後に対談の時間を貰い話を進めていたが、木兎さんは私たち二人では思いつかなかった奇抜なアイデアを次から次へと提案してきたので、私は驚きを隠せなかった。中には到底できないような物も含まれてはいたけれど、木兎さんの天才的な創造性と黒尾さんの冷静な分析力と判断力でぽんぽんと話が進み、現在の企画進行度は順調すぎるほど順調だ。

その後、これまた木兎さんの提案で三人で飲みに行くことになったのだけれど、その際に今日の…、クリスマスデートが決定してしまったのだ。

「そういえば黒尾って、来週誕生日じゃなかったっけ?」
「え」
「あー、そういえばそうだな」
「自分の誕生日忘れてたのかよ!」
「忙しいとつい忘れそうになんだよ。しかもこの歳になると別に誕生日って嬉しいモンでもねーし」
「まぁそれもそうか!!俺らもオッサンになったんだなー」
「…誕生日、いつなんですか?」
「17日。…なぁに苗字ちゃん、お祝いしてくれんの?」
「……いつもお世話になってるので」
「いいじゃん!なんか欲しいもんとかねーの?」
「んー…、欲しいものねぇ……」

そう言って黒尾さんは悩む素振りをしてから、チラッとこちらに視線を向けた。どうして私の方を見たのかこの時は分からなかったけれど、後に木兎さんと解散して送ってもらっている際に、私はその意図を知ることとなった。

「てか、誕生日本当に祝ってくれたりすんの?」
「それは…さっきも言いましたけど、いつもお世話になっていますし」
「へぇ?」
「あまり高価な物は買えませんけど…、私に買えそうなものであれば」
「………あー。…金は必要ねーよ」
「え?どういうことですか?」

“─…来月の24日さ。もし苗字ちゃんが予定ないんだったら、……その日、俺にくれないデスカ”

あの時の黒尾さんの表情と言葉を思い出すだけで、私は顔から火が出そうになる。お陰様で、鏡に映る自分の頬は、チークなんて要らないほど、ほんのりと桃色に染まってしまっている。

そう、先月黒尾さんは誕生日を迎えた。日頃からお世話になりっぱなしの上司だし、何か些細な物でもいいからプレゼントをあげるのが礼儀だろうと思って欲しい物を聞いたのに、彼はなんと、私の時間が欲しいと言ってきたのだ。

そんな答え予想すらしていなかったあの時の私は、足が強力接着剤でくっつけられてしまったかのようにその場から動かせなくなってしまい、少々黒尾さんを困惑させてしまったのは申し訳なかった。いや、惹かれ始めている相手から突然あんなこと言われたら誰だってあぁなるでしょう。

まぁ、断る理由もないしYESと答えようとしたと同時に「…駄目だったら断ってくれていいから、遠慮なく言ってな?」と申し訳なさそうに笑う黒尾さんに少し腹が立ってしまったけれど。私が断る前提なのが悔しかったのだ。どうして勝手に決めつけるのだ、と。

なんだか無性にムカついてしてしまった私は、そう言って歩き出そうとした黒尾さんのスーツの裾を、らしくもなく思いっきり掴んで一言放ったのだ。

“─…勝手に決めつけないでください。…そんなのでよければ、……いくらでもあげますから”

…なんて可愛くない答えなんだろう。いよいよ家を出る時間となった私は、スクエアトゥのショートブーツを履きながらそんな感想を抱いていた。どこまでも素直じゃない自分に対して自己嫌悪に陥ってしまう。

けれど、今日は一ヶ月以上遅れた誕生日プレゼント…ということになるのか。今日くらいは、素直になれたら良いんだけど。そんな意思を胸の奥底にそっと置き、私はひとつ深呼吸をしてから玄関の扉を開けたのだった。


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「(よかった、予定通りの時間に着いた)」

お昼ご飯は食べてから集合と言われた為、軽く昼食を取ってから待ち合わせ場所へと到着した午後二時前。この高級感溢れる街は、何度足を運んでも緊張してしまう。

しかしまぁこのオブジェ、やっぱり不気味だな。待ち合わせにはわかりやすいのだけれど、蜘蛛の長い脚がコンクリートに突き刺さっているし。真下に立つと巨大蜘蛛に襲われてるような感覚になって落ち着かないし。ちょっと移動するか、と八本ある脚のうちの一本にもたれかかりながら私はマフラーに顔を埋める。

昼間と言えど、もう十二月も終盤だ。ぴゅう、と高い音を立てて吹く北風は身体を芯から冷やしてしまいそうなほど寒く、せっかくセットした髪の毛も乱されてしまう。

寒いし、黒尾さん早く来てくんないかな。そう思い目線だけで周りを見渡すが、それらしき人物は見当たらない。まぁ、待ち合わせ時間まであと十分あるし仕方ないか、と寒さに耐えようとした時、顔の真横からぬっと誰かが覗いてきて思わず大きな声で叫びそうになってしまう。

「ひっ─…!!!!……く、くろおさん」
「ぷっ、ククク…わり、待たせた?」
「それは大丈夫ですけど、もう少しマシな登場の仕方できないんですか……心臓止まるかと思った…」
「苗字ちゃんいつも良い反応してくれっから、揶揄い甲斐あんだよネ」
「………それはどうも」
「ごめんごめん拗ねないで」

突然背後から現れた黒尾さんが不意打ちすぎて、本当に口から心臓が飛び出るかと思ってしまった。私を驚かせて満足したらしい彼は「ま、とりあえず行きますか」といつもの調子で歩き出した。私はいきなり驚かされて、少し気が動転してしまっていると言うのに。

そういえば、黒尾さんの私服見るの、初めてかも。こうしてプライベートで会うのは勿論初めてなので当然と言えば当然なんだけれど、スーツ姿以外の彼はなんだか新鮮だ。膝下まであるキャメル色のロングチェスターコートを主軸に、黒のタートルネックのニットと黒のワイドスラックス。そのスタイルの良さを生かしつつ、シンプルにまとめられていて、とても彼に似合っている。

「…熱い視線だね?」
「や、黒尾さんの私服初めて見るのでつい好奇心で分析してしまいました」
「…そういえば元アパレル系だったね苗字ちゃん」
「はい。すごいお洒落だし、似合ってます。やっぱスタイルもいいからロングコート映えますね、着こなしててかっこいいです」
「……………そりゃドウモ」

黒尾さんがなんとなく照れたっぽいのが伝わり、私はハッと我に返る。ついつい職業病が出てしまい饒舌に語ってしまったけれど、気持ち悪くなかっただろうか。

「…ぇ、と。そういえばどこに向かってるんですか?」
「ん?映画でも観ようかなーって」
「あ、良いですね」
「今なんか良いのやってっかな」
「まぁそれは行ってから決めましょう」
「だな」

映画か。映画館で観るなんて、いつぶりだろう?忙しくてしばらく観に行けてなかったけれど、やはり家で観るのとは迫力が全然違うし、あの映画館独特の世界観に浸れる雰囲気も好きだ。

「混んでんな〜」
「今日寒いですしね、みんなのんびり温まりたいんじゃないんですか」
「確かに。…どう?なんか気になんのある?」
「そうですね…あ、あれの続き今やってるんだ…」

ざわざわと人の話し声が館内に響く中見つけた、ある映画のタイトル。観たことのある映画の続編がやるということは知っていたけれど、まさかちょうどこのタイミングでやっているとは。見覚えのある文字を見つけてぽつんと呟くと、黒尾さんは「お。どれ?」と私の目線の高さに合わせて同じように電光掲示板を眺めてきた。

思いのほか彼の顔が近くて、私は反射的に息を止めてしまいそうになる。最近の彼は、なんだかこう、スキンシップが多いと言うか、物理的な距離が近いと言うか。それゆえに、私は毎回ドギマギしてしまうしその度に心臓がどくんと跳ね上がるからやめてほしいのだけれど。それを悟られないように、「あれ、です。○○2ってやつ…」と小さな声をなんとか絞り出した。

「あー、あれか。面白いよな」
「…黒尾さんも好きなんですか?」
「面白くて3回観に行ったくらいにはな」
「そ、そんなに…」
「コラ。ちょっと引かないの」

結局、二人共通の映画がちょうど良い時間帯であったということで、鑑賞する映画は案外すんなりと決まった。…そういえば映画館って、座席意外と近いよね。二時間もの長丁場、果たして私は彼の隣で耐えられるだろうか。


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「いやー、面白かったな」
「ですね」

無事に映画を観終えた私たちは、今はすぐ近くにある某カフェチェーンで暖をとっていた。毎年この時期になるとクリスマスにちなんだフレーバーが出ているが、私はここのジンジャーブレッドラテが大好きなので迷わずそれを注文した。

隣で黒尾さんに「邪道じゃね?」と言われて少しカチンときたので、ブレンドを頼んでいた彼に対して「黒尾さんは面白みがないですね」と何とも嫌な返しをしてしまった。今日ばかりは素直になりたいと思っていたのに、それとはかけ離れた言葉しか出てこない自分に嫌気が差したけれど、黒尾さんは全く気にする様子もなく「言うねぇ〜」とゲラゲラ笑っていたので、あまり気にしなくても大丈夫そうだ。

これを飲むと、あぁもうそんな季節なんだなぁと毎年感じていたけれど、今年はクリスマスイブということを変に意識してしまい、忘れかけていた緊張が戻ってきた。そういえば、今日の名目はクリスマスデート、だったんだ。

「あ、そういえばさ」
「はい?」
「夜メシまでちょっと時間あんだけど、ちょっとそこ寄ってかね?せっかくだし」
「…はい」

そう言って黒尾さんが提案した場所とは、ここから歩いて一分もかからないところに位置する、並木通りのイルミネーションのことだった。確かにこの時期にここに来ることなんてなかったし、せっかくだから見てみたい。けれど、クリスマスにイルミネーションだなんて、いよいよクリスマスデートって感じが強くなってしまうではないか。

芯まで温まった身体も、一歩外へ出れば途端にその熱が奪われる。昼よりは風も落ち着いたみたいだけれど、それでも時々凍て風が肌を撫で、ぴりりと痛むような寒さを感じる。

真冬だからこの時間帯は暗いはずだけれど、通りにずらりと並んだ木々たちが青と白の光を纏い、街全体を眩く照らしている。そしてやはりクリスマスイブだからか多くのカップルでひしめき合っており、あっと気づいた時にはもう遅く、私と黒尾さんの間に生じていた僅かな隙間に二組のカップルが入ってきてしまった。

ど、どうしよう。私から黒尾さんは見えているのだけれど、なかなかこの人の波を掻き分けて彼の元へ辿り着く勇気が出ない。…携帯もあるし、一旦この場から離れて連絡した方が無難かも、と考えていると、何度か触れられたことのある大きな手がグイッと腕を強く引っ張る。


「…よかった、合流できて」
「あっ……すいません、私がぼけっとしてるから」
「本当にな」
「う、」
「っつーことで、もうはぐれないようにしねぇとな」
「…!」
「あ。嫌だったらコートでも掴んでて」
「…」

その言い方は、狡いよ黒尾さん。今まで腕や手首を掴まれたことはあるけれど、手を握られたのはこれが初めてだ。冷え切ってしまった私の指先に、心臓から送られた血がじんわりと行き届いているのを直に感じてしまう。

…誰にだって、こういう事をするのだろうか。そんな人じゃないと思いたいけれど、それはあくまで私の我侭な期待でしかない。それに私は、それを彼に問いただす勇気はない。

けれど、そんな不安を抜きにして考えれば、嬉しいと思ってしまう自分が確かにいる。嫌じゃない、ちっとも嫌なんかじゃないよ、黒尾さん。言葉にはできないけれど、少しでもそれが伝わらないかと、彼の背中を見つめながらその大きくて少しカサついた手をきゅっと握り返す。

すると黒尾さんは一瞬肩をピクリとさせてこちらを一瞥しては、「あのねぇ…」とボソボソ言いながらその手を離してしまった。

…もしかして嫌だったのかな。そんな不安が途端に心の底から溢れ出し、私は宙に浮いてしまっている左手をただひたすら見ることしかできない。彼の手が離れた瞬間、先ほどまで熱を帯びていた筈なのにひんやりとした空気によって一気に逆戻りだ。

寒い、な。そんなことをぐるぐると思っていたらなんだか急に泣きそうになってきた。黒尾さんといると、どうにも情緒が安定してくれない。こんなの、私じゃないみたいだ。

すると行き場を失った左手がもう一度温かな体温に触れ、今度は指を一本一本絡め取るようにしっかりと握られた。

「くろおさ、」
「…うん。こっちのがしっくりくるな」
「…」
「嫌じゃない…ってことで、合ってる?」
「…………嫌、」
「…まじ?」
「…じゃないですよ」
「……驚かせないでよネ」
「ふふ」

今日は黒尾さんに対する遅めの誕生日プレゼントという日なのに、なんだか私ばかりが貰っている気がする。クリスマスイブの今日。欲しいものを与えてくれるのは、サンタなんかじゃなくて、黒尾さんなのかも知れないな。

そんな事を考えながら、私たちは雪のように白い光に包まれながら、そのきらきらと輝く道をゆっくりと進んで行くのだった。