つかれた。

ここ最近、いわゆる繁忙期というものに追われ、この二週間定時で上がれた試しがない。そんな中での唯一の救いと言ったら、残業代がきちんと出ることくらいだ。人間、二週間毎日残業が続くと心身ともに疲労が限界突破をするようで、もはや息をするのも面倒くさいと感じるくらいにはヘトヘトだ。喉から手が出るほど待ち望んでいたはずの週末なのに、どうにも気分が上がらない。

あー、帰ったら全自動家事やりますロボットがあったかい食事を出してくれたり、お風呂を洗ってお湯を張ってくれてたらいいのに。そんなネーミングセンス皆無な機械の妄想を疲れ切った脳で繰り広げながら、私は一人寂しく帰路につく。

はぁ、と息を吐けば白くなる空気に冬を感じる。太陽は一足先に眠りについたようで、キンと音がなるように冷え込む今は二十一時を回ったところだ。車通りも少ないこのアスファルトの道には、パンプスが奏でるコツコツとした軽やかな音だけが一定の速さで響いている。この時間帯だと、仕事帰りのサラリーマンやOLの姿なんてほとんど見かけやしない。ちくしょう、世の中の人間のほとんどは定時上がりですってか。

十分ほどしてようやく自分が住むマンションに辿り着きいつも通りポストを確認すると、そこには出前のお寿司のチラシが入っていた。普段は何とも思わないのに、今日だけはやけにチラシの中の鮪や鯛たちが艶々と輝いているように思える。…こんな時間だけど、なんかお寿司食べたくなってきたな。もう自炊する気力なんてゼロだし、明日からは三連休だし、残業頑張ったご褒美に頼んでしまおうか、と考えながらオートロックの鍵をガチャリと回した。

しかしまぁ、部屋がある三階がこんなに遠く感じるのはいつぶりだろうか。階段を登ることも非常に億劫ではあるが、ここで突っ立っていては他の住人に迷惑だ。私は重りをつけられているかのように重たい足を無理やり動かし、なんとかして部屋へと向かう。

そして扉を開けた瞬間、クリームシチューの優しくて仄かに甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。しかも暗いはずのリビングからは何故だか光が漏れている。何、これ?疲れすぎてついに幻覚まで見るようになった?と眉をひそめながらパンプスを脱ごうとすると、今度はつま先に何かが当たった。

次から次へと何なんだ一体、と視線を下に向けると、そこには自分より一回りほど大きいサイズのスニーカー。この履き慣らされて少しよれている靴には見覚えがありすぎる。え、待ってもしかして。

「元也???!!!!」
「おっ、おかえり名前」
「ただい、ま…え、待っ、なんっ…え!?」
「いや〜、連絡はしたんだけど既読になんなかったからさ。勝手に上がっちゃった」
「そ、れはいいんだけど、えっ?なんで、」

ここに居るはずのないのに、どうして。幾度となく見てきたスニーカーでほぼ確信をし、勢いよく開けたリビングの扉の先には、予想通り恋人の元也がにこにことキッチンに立っていた。もしかして、これも幻覚?いやでも普通に会話したな今。目の前で起きている状況が全く処理できないでいる私は、思わず自分の左頬をむに、と抓る。そんな私を見て「ちょ、なにしてんの!」と彼は吹き出した。

プロバレーボール選手として活躍し、日本代表にも選ばれるほどの実力を誇る彼とは、かれこれもう四年の遠距離恋愛をしている。ただでさえ物理的な距離があり頻繁に会うことが難しいのに、最近はお互いの忙しさも相まってしばらく会えない日々が続いていた。

そんな毎日でも、テレビの中でボールを追いかけて拾う姿を見れば私も自然と頑張れていたし、画面越しではあるけど彼に会えた気にもなっていた。もちろん本音を言えば直接会いたかったけれど、シーズン中で集中している彼に対して水を差すようなことはしたくなかった。だから私は、画面の中で活躍する彼が見れるだけでも十分だ、と自身を満足させていた。静かに膨れ上がっていた寂しさは、そっと心の奥底へ閉じ込めて。

恐らく、こうして直接顔を見れたのは一ヶ月ぶりだ。その期間、できるだけ連絡は取っていたしお互い余裕があれば電話もしていた。けれど、いざ直接会えるとなると、あれだけ会いたかったはずなのに嬉しさよりも驚きの方が勝ってしまい、まだ現状把握をしきれていない私に彼は声を掛ける。

「名前、明日から3連休でしょ?俺もなんだ」
「あ、あれ、そうだっけ」
「2日前に電話した時に言ったんだけどなー?」
「うっ…ごめん、あの時眠すぎて……」
「大丈夫、わかってるよちゃんと」

一週間お疲れ様、とまるで向日葵のような笑顔を向けられて、胸のあたりに柔らかくあたたかい光が灯るのを感じる。自分だって毎日仕事や練習をこなして忙しいくせに、そんなことを微塵も感じさせないどころか労いの言葉をかけてくれる彼の周りに、キラキラしたフィルターがかかって見えた。

「元也が眩しい………」
「ははっ、相当お疲れだなぁ」
「え、…本物だよね?」
「本物だから手洗いうがいして着替えてきな。とりあえずご飯食べよ」
「、うん」

彼に言われるがまま洗面所へやって来た私だが、キッチンの方から聴こえてくる楽しそうな鼻歌が耳に届き、ようやくこれが現実だという実感が湧いてきた。どうしよう、すごくうれしい。嬉しすぎて、思わず口元がニヤけてしまうのを抑えられそうにない。それを悟られるのはちょっぴり恥ずかしいから口元を手で隠して寝室へ移動しようとしたのに、目敏い彼から「顔にこにこじゃん」と指摘されてしまった。…どうやら感情が駄々洩れていたらしい。

そうして着替えも終えた私は、キッチンに居る彼の横へ立つ。ぽわん、と音がなりそうな蒸気を出し、食欲をそそるような香りを漂わせるクリームシチューを覗くと、私は一瞬にして目が輝いてしまった。

「鮭とほうれん草の!」
「名前この組み合わせ好きって前言ってたから」
「元也は心の広さも具材のチョイスも日本代表級なの?」
「なんて?」
「…今のはスルーして下さい」
「名前って疲れるとちょっと馬鹿になるよね」
「ねぇさっきから辛辣なんだけど」

そう言って彼の脇腹を拳でぽすぽすと小突く。いてて、と笑う彼をちらっと盗み見てさらに心の中に灯っていた明かりがまたひとつ、ふたつと増えた気がした。あぁ、なんだかこういう時間の過ごし方って、久しぶりかも。毎日元也が居てくれたら、どんなに疲れていたとしても仕事頑張れちゃうんだろうな。

「…うん、ちょっと顔元気になったね」
「元也さんのおかげです」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん」

そう言ってパチンと火を止めた彼はまるで自分の家かのようにスムーズにお皿を取り出したので、私は言われるまでもなくシチューを盛り付ける。その間に彼は、先に作っておいたのか冷蔵庫から具沢山のサラダまで出してきた。しかもご丁寧にゆで卵まで乗っているやつ。私より生活能力高いんじゃないのか?

最近は碌な食事を摂っていなかったが故に質素だったテーブルも、今日は彼みたいに優しい色合いのクリームシチューと、彩り豊かなサラダが並んでいる。「はい、座って座って」と促されて席に着くと、今度は冷蔵庫からビールを二本持って来た。

「今日は飲むんだ」
「1本くらいならね」
「そっか」
「それに。疲れ果ててる彼女の3連休開幕戦、乾杯しないわけないっしょ」
「……なんでこんな出来た人なの私の彼氏」
「えー?俺のこれは彼女をただ労いたいだけの自己満だよ」
「この行動をそうやって言えちゃうところ好き」
「ありがと」

プシュッと小気味好い音を二つ重ねて、「乾杯」と缶を軽くぶつけ合う。ゴクリ、と喉を鳴らして飲む久しぶりのアルコール。普段あんまり飲まないけれど、こんなに美味しかったっけ?目の前には久しぶりに会えた恋人が居て、あったかい手料理があって。やっぱり誰かと一緒に飲むお酒は美味しいんだな、と食道を通るアルコールの熱を感じながらぼんやりと思う。これが至福のひと時ってやつだろうか。

「いただきます」
「どうぞー」
「……ん、お、おいしい〜…」
「ほんと幸せそうに食べるよね名前」
「だって本当に幸せだし、美味しいし…、どうしようなんか泣きそう」
「よしよし、今週もよく頑張りました」

そう言って慈愛に満ちた瞳を向けて頭を撫でてくるもんだから、本当に涙がじわりと浮かんできてしまった。毎日気を張り詰めて遅くまで働く日が続いていたから、少しのことで涙腺が緩んでしまう。まだ食事は始まったばかりなのに、押し殺していた寂しさとか元也への想いとかがこみ上げてきて、私は徐々に滲む視界に負けないように、震える口を開く。

「今週、特にきつくて」
「うん」
「やってもやっても…仕事終わんない、し」
「うん」
「本当は、元也にすごく、…会いたかった」
「俺も。めちゃくちゃ会いたかった」

あぁ、会いたいって思ってたのは私だけじゃなかったんだ。彼から発せられたその真っ直ぐな言葉に、視界の下に溜まっている小さな海がふるふると揺れ始める。

「けど、仕事が中途半端、な状態で会ったら、」
「集中力とか切れちゃうもんな」
「…うん、」
「名前は真面目だからさ、自分の中で区切りがつくまでは俺に“会いたい”とか“寂しい”とか言わないようにしてくれてたんでしょ?」

ぽろり。なんとかせき止めていたそれは、ついに目から零れ落ちてしまった。泣きながら話す内容は支離滅裂に違いない筈なのに、彼はぜんぶ丁寧に拾い上げてくれて、ひとつずつしっかりと言葉にして返してくれる。彼のそういったところが、昔から好きで好きでたまらない。

「ん、…さみしかった、けど、元也も忙しかった、から」
「…ワガママは言いたくなかった?」
「だって…会いたいって言った、としても、簡単に会える距離じゃない、し」
「まぁそれはそうだよね」
「そう、だから、困らせたくなく、て」
「……馬鹿だなぁ名前は」
「…」
「実際に会える会えないかは別だけどさ。会いたいって言われて困るような男じゃないことくらい、名前ならわかってるでしょ」
「そ、うだけど」

会いたいって言われたら嬉しいに決まってんじゃん。彼はケロッとそう言い放つと席を立ち、私の隣へしゃがみ込んできた。そして涙でぐしゃぐしゃの私の顔を見上げては、「あーぁ、こんなに泣くまで溜め込んで〜。いや、溜め込ませたのは俺か」と、私の頬を伝う涙の線を親指でグイ、と雑に拭いながら苦笑した。いたいよ、と言えば「ごめんごめん」と、先程の雑さが嘘かのように、今度はそっと左頬を大きな手で包み込まれる。

「元也、は、悪くない」
「でも我慢させてるのは事実だし」
「私が勝手に我慢しただけ、だもん」
「うーん、でもその原因作ったのは俺だよ?」
「そうだとしても、元也には申し訳ないって、感じてほし、くない」
「俺だって、名前に我慢してほしくないよ」
「…」
「………だからさ、」

どこか歯切れが悪そうにそう言う彼は、バレーの試合中にするような真剣な表情をし、着ていたパーカーのポケットをごそごそ漁り出す。私はこの時、これから何が起こるかなんて想像する余裕すらなかった。ただひたすらに、「だからなんだろう?」と言葉の続きを待っているだけだったのに、彼がポケットから小さなベロア調の箱を取り出して開けるものだから、想像する以前に嫌でも続く言葉がわかってしまった。

「もう俺に遠慮して我慢するのとかやめない?」
「……元也…」
「仕事忙しいのはわかってる。だから今すぐにってわけじゃないけど、」
「…っ」
「名前の今の仕事が一区切りついたらさ…俺と結婚、してくれませんか」
「、…!よろしくお願い、します…」

涙でぼやけている視界越しでも彼の慈しむ表情が読み取れて、私は堪らず彼の首に腕を伸ばした。すると彼もまたゆっくりと両腕を広げてくれて、お互いに強くも弱くもない力加減で抱きしめ合う。

あぁ、元也の香りだ。元也の体温だ。およそ一ヶ月ぶりに触れた元也はいつもと変わらないぬくもりで、そのどこか懐かしい温かさに余計に涙が溢れてくる。

ただひたすら鼻を鳴らす私の背中をぽんぽんと叩きながら、彼は「は〜緊張した……あ。うわ、待って。せっかく指輪嵌めてから言おうと思ってたのに…」と耳元でボソボソと呟く。それがなんだか可笑しくて肩を震わせながら笑うと、「笑うな〜!」と先程より強い力で抱きしめてくる。

その力強さを全身で感じながら、このゼロ距離が遠くない未来ずっと続くんだと思うと、疲れて淀んでいたはずの心は、気づいたらもうどこにもなかった。




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