(最後の恋煩い番外編)


もやもや。ぐるぐる。

これは今の私を表す単語に最適だ。と言うよりは、私の体調、だろうか。

お風呂に入るまでは何ともなかったのに、寝る準備を整えて鉄朗とベッドに入りいざ寝ようとなってから、どうにもこうにも胃のあたりがムカムカする。端的に言えば、すごく気持ち悪い。

鉄朗はとうの昔に夢の中へと落ちていてグースカ寝息を立てているけれど、私はと言うと、かれこれ一時間ほど謎の悪心に襲われている。何か変な物でも食べただろうか。

動くと余計に悪化しそうで、暗闇の中、ある一点をずっと見つめながら必死に耐える。何かの気のせいだ。病は気からだと言うし、そうに違いない。

そう自分自身を思い込ませようとした矢先、突如として口の中いっぱいに生唾が広がる。その何とも言い表し難い不快感から、これは本格的に駄目なやつだと察知し、鉄朗には申し訳ないけれど勢いよく起き上がりトイレへと駆け込む。

「っう、ぇ……っカハッ、」

嘔吐してしまうだなんて、何年ぶりだろう。胃がひっくり返ってしまうような吐き気に負けてしまった私は、抗うこともできずにただひたすら胃の中を空っぽにしながら、そんなことを呑気に思う。

脳に酸素が上手く行き届いていないのか頭はぼうっとし始めるし、苦しさから自然と涙も滲み出てくる。体調不良の中で、嘔吐という症状が一番嫌いなんだ、私は。

一通り戻したら少しだけスッキリした私は、働かない頭でトイレを除菌シートで隈なく拭き、スプレーもしてからその場を後にする。万が一鉄朗にうつってしまったら、申し訳なさで自害してしまいそうだから。彼は今、仕事が大事な時期なのだ。

とりあえずうがいをして歯も磨いたけれど、なんとなくベッドに戻る気にはなれずにリビングのソファに一人ぽつんと座る。壁に掛けてある時計を見やれば、午前三時であることが読み取れてしまい、こんな真夜中に体調を突然崩してしまったことに、どうしようもない自己嫌悪感が襲う。

カーテンの向こうは当たり前だけれど真っ暗闇。今居るリビングもテレビは静まり返っているし、お喋りな鉄朗も居ないことから、シン─、とした冷たく無機質な音が耳に響くような気がする。音なんて、実際していない筈なのに。

体調が悪いと様々な神経が敏感になるからだろうか、普段なら気にならないその無音でさえ、やはり音を含んでいるように感じてしまう。さっきから気になって気になって仕方ない。そうなってしまえば、再び鳩尾あたりから何かが這い上がってくるような感覚に襲われ、私はトイレへと駆け戻ってしまった。

「ふ、っ……く、ハッ…」

もう、やだ。どうして。さっき出したばっかじゃないか。出るものが無いのに、そんなの関係ないとでも言うように嘔気は私の身体を蝕み、それに支配された身体も身体でなんとかして何かを出そうとするから、困ったもんだ。

再び後処理をし終え、ザーッと全てを流し出す音を聞いていると、ほんの少しだけ心が落ち着く気がする。ふらふらとした足取りでトイレの扉を開ければ、視界には見覚えのあるTシャツが映っていた。

「……てつろう?」
「もしかしなくとも、体調すげー悪い?」
「、うん…」
「…とりあえずうがいとかしてきな」
「ん…」

あぁ、やっぱり彼を起こしてしまった。もうあと数時間したら日が昇るという真夜中なのに。明日…というか今日、か。彼も私も、いつも通り出社なのに、充分な睡眠を得られない状況を生み出してしまったことに対して、申し訳なさが頭の中いっぱいに広がる。

「…て、鉄朗」

ソファに座る鉄朗の背中を見たら、安心感とか、申し訳なさとか、愛おしさだとか。色んな感情がごちゃ混ぜになって、彼の名前を震える声で呼ぶ。

「ん?…こら、体調悪いのになーに突っ立ってんの。……おいで」
「…っ、うぅ〜…」

彼はその辺りもお見通しと言ったところだろうか。リビングの入り口で動けなかった私の元へと歩み寄ってきて、優しい声と共にふんわりと包み込んでくれた。その温かさと優しさが、彼の声や動作全てから伝わってきてしまい、私は目から溢れんばかりの涙をぼろぼろと零してしまう。

すると鉄朗は頭上にひとつキスを落とし、私をふわりと抱き上げる。ロマンチックなお姫様抱っこなんかではなく、所謂ノーマルな抱き上げ方ではあるけれど、それがなんだか彼らしくて、彼の首にきゅ、と腕を回す。

「…辛かったっしょ、吐いたんだろ?」
「………気づいてたの?」
「そりゃあれだけ慌ててトイレ駆け込んで嗚咽聞こえたらネ」
「ご、めんね」
「なんで謝んだよ、名前なんも悪いことしてねーじゃん」
「だって、っ、鉄朗、いま大事な時期なのに」
「それを言うなら名前も一緒じゃん」

彼とは同じ職場だからお互いの仕事の状況が分かるのはいいところ、だとは思う。今抱えている案件はそれぞれ違うものではあるけれど、確かに彼の言う通り二人とも忙しい時期だ。だからバタバタして免疫力が低下して、体調を崩してしまったのかなと思っているのだけれど、ふ、と私の頭の中に一つの可能性が浮上する。

「………………もしかして」
「ん?」
「……待ってて、」

その可能性は大いにある。あり得るからこそ、ちゃんと向き合いたいのだ。私は覚束ない足取りで寝室へ向かい、サイドテーブルに置いてあるスマホを手に取る。僅かに震える指先であるアプリを開いて確認すると、一瞬だけ世界から音が消えるような不思議な感覚に陥る。

「…………名前?」
「…」
「大丈夫か…?どうした?」
「鉄朗、ど、うしよう」
「エッ、何?神妙な顔しちゃって…」
「………………生理、2週間も遅れてる…」
「は?名前ってすげーキッチリきてたよ、な……」
「…」
「………名前、」

手にうまく力が入らない状態で必死にスマホを握りながら鉄朗にその可能性を打ち明けると、彼もまた一瞬、ピタリと時が止まったかのように固まる。しかしその後すぐに、私の腕を優しく引いてくれた。

何か悪い物を食べたわけでもない。最近接した人の中に、胃腸炎だった人もいない。私の生理周期は、早まることはあっても遅れることはなかった。それが二週間も遅れるなんて、スケールが大きいと思われるかも知れないが、正直前代未聞である。まだ確定じゃないけれど、可能性が一番高いのは、そう、

「……薬局、行くか」
「ふふっ、…そこが病院じゃないあたり、なんか鉄朗、らしいね」
「だって今の時間やってねーじゃん」
「……まぁたしかに、救急かかるような…ほど、でもな─」
「名前?!」

本当に、事あるごとに私はタイミングを選ぶのが下手くそなようだ。これ以上真っ直ぐにならないというくらいまで張り詰めていた緊張という名の糸は、少しばかり希望が持てる兆しが見えた瞬間にぷつりと切れてしまい、私はそこで意識を手放してしまったのだ。

最後に見た鉄朗の表情が今までに見てきたどんな顔よりも焦っていて、心の中で"ごめんね"と呟いた。


---


「─…ん、」
「っ、名前」
「あれ、てつろ…?ここは…?」
「病院」
「え…?」
「お前、ぶっ倒れた。俺、テンパった」
「そ、それは…すいません……」

ふわっと意識が戻りゆっくりと目を開けると、目の前には真っ白な天井。あぁ、ついに私死んだのかななんて縁起でもないことを考えていると、私の好きな声が私の名前を呼んだことで覚醒した。良かった、まだ生きているみたいだ。

「焦りすぎて最初おまわりさんに掛けたっつーの」
「んっふふ」
「笑うな、こっちの気も知らねーで」
「いや今のはどう考えても笑わそうとしたでしょ…けど、ごめんね心配かけて」
「本当だよ」

心配をかけている身でこんなこと思うのは鉄朗には悪いかも知れないけれど、自分のことで慌てふためく彼の茶目っ気や、大切に思ってくれているその気持ちが嬉しいのだ。

すると、点滴に繋がれた方の指先を絡め取られ、強くも弱くもない力加減でキュ、と握られる。点滴で全身に冷たい液体が巡っているからか私の体温は低く、触れ合っている部分から伝わる彼の温かさが溶け合って気持ちが良い。

「…………1ヶ月だって」
「ぇ…」
「すまん。名前より先に聞くのもどうかと思ったんだけど、お前が気失ってる間に先生が勝手にベラベラと」
「そ、それは良いよ。………そっか…もう1ヶ月もこのお腹の中で育ってくれてるんだ…」
「………すげぇな、」
「うん、凄いね…」

可能性が、現実となった瞬間。全然ロマンチックでも何でもない雰囲気だけれど、自分の身体の中に、新たな命が宿っているのだと思うと、色んな感情がぶわりと溢れ出してきて視界がボヤけてしまう。

「今日はよく泣きますね、奥さん」
「っ…だっ、て……、」
「ん、わかってる。なんなら俺も泣きそうだし?」
「またそうやって誤魔化し、…!」
「……嬉しいよ」

涙の海越しでもわかる、目の前の愛おしい人の目からも、美しい雫がこぼれ落ちていることが。嘘、やめてよ。優しい声でそんなこと言いながら、そんな顔、しないでよ。

「ふっ……ぅ、馬鹿ぁ…」
「名前のことになると馬鹿になっちゃうんデス、僕は」

繋がれた左手同士、重なり合う銀があたたかく感じるのはどうしてだろう。そんなことを考えていれば、鉄朗が空いている右手で慈しむように頭に触れてくる。あぁ、もう、本当に馬鹿。

「お前が倒れた時はどうしようかと思ったけど」
「…、」
「今日、改めて思ったわ。何があっても、俺は守るって。名前も、…お腹の子も」
「て、つろ…」
「泣かせてゴメンネ?」
「本当だよっ……!」

頬を伝う涙に私の鉄朗に対する愛情まで流れていってしまいそうで、止めたいのに止められない。それもこれも全部、鉄朗のせいだ。責任とってよ、と目で訴えれば、彼は全てお見通しだとでも言うように、涙を丁寧に掬っては笑いかけてくれるのだ。




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