「オネーサン、髪乾かすよ?」
「助かる」

世界中で猛威を振るっている感染症。昔、学生の頃に歴史の授業でパンデミックとなった病気を学んだ事は記憶にあるけれど、まさか自分がその時代に生きるとは思ってもいなかった。

この感染症のせいで世の中の在り方は一転してしまい、我慢を強いられる生活に人間たちは不満を溜めている。気軽に人に会えない、地元に帰省できない、働きづらい、エトセトラ。私は元々家で過ごす事も多かったのでそんなに不満はないが、アウトドア派の人達は相当なストレスを抱え込んでいるんだろうな、とどこか他人事に思う。

「にしても、こんなに酷いなんて聞いてない…」
「まー、若い女の人の方が出やすいって言われてるもんネ」
「…私の年齢知ってて喧嘩売ってる?」
「どうしてそーなんの。全然若いじゃん名前さん」
「6つも下の花ちゃんには言われたくない」

そんな中、弊社で職域接種を実施するという朗報が、つい先日舞い込んできた。自治体の接種券を待っていたら、比較的若い世代の私はいつ打てるか分かんないし、有難いったらありゃしない。そう思い、私は嬉々として接種希望に丸を付けたのを覚えている。

ただ、"配偶者も可"の記載を見つけた時、少し複雑な思いが生まれたのも事実だ。我が家には、簡単に言えば居候が一匹…いや、一人居る。半年前、仕事帰りに帰路についていたら目の前をふらふら歩いていた、ピンク髪色の少年。当時は酔っ払いか?だなんて訝しんでいたけれど、彼はなんと、私の目の前でバターンと勢いよく倒れたのだ。

そこから紆余曲折あって、何故か私の家に住むことになったのが、花ちゃんこと、花巻貴大くん。救急車で病院まで付き添い、その後事情を聞いた際に彼に同情した私は「君、よかったらうち来る?」と気づいたら口から出てしまっていた。まぁ一緒に住んでた元彼の部屋もあるし、人一人ぐらいは養う財力は持っているし、と。

あの時の彼と言ったら、それはもう目に光を宿しながらキラキラとこちらを見つめてきて、見えない尻尾がぶんぶんと振られていたのを覚えている。その印象が忘れられなくて、私は大きな犬を飼うような気持ちで、彼を拾ったあの日から今日まで過ごしてきた。

…とまぁ、体調が悪いと、懐古をしてしまうのは私の悪い癖だ。一緒に住んではいるものの別に配偶者でもなんでもない花ちゃんにも、ワクチンを打ってもらいたい。そう思ったものの、流石にそれは許可できない、と事情を知る総務の同期から断られてしまい、泣く泣く私だけ打ってきたのが、昨日。

「まぁいつもお世話になってるし、何でも俺に任せてよ」
「ありがと…」
「しばらくはこうして髪も乾かしてあげっからさ」

そして今日。私の身体には、しっかりとワクチンの副作用が出てしまっている。噂には聞いていたけれど、まさかいざ自分が体験するとなるとこんなにもしんどいなんて思いもしてなかった。花ちゃんが居てくれて本当に助かったと、こんな時に思うのは失礼だろうか。

腕は痛すぎて上がらないし、力も全く入らない。ただの飾りと化した腕でよくシャワーを浴びれたなと思うけれど、これはもう気合いでしかなかった。しかし、その後に二つの問題が待ち構えているのを、私はすっかり忘れていたのだ。

一つは、髪を乾かすということ。今日は自然乾燥しかないかな、と諦めかけていたところに花ちゃんの助け舟があり、今私はお言葉に甘えて彼に髪を乾かしてもらっている。

普段家のことを殆どやってくれている上に、こんな事までしてくれるなんて、彼には本当に頭が上がらない。後で頭を撫でて、褒美のおやつとしてシュークリームでも買いに行ってあげよう、とドライヤーの音に包まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。この無機質な音と、彼の強くも弱くもない力加減が何とも心地良い。

「ほい、終わり」
「…ん。ありがとね」
「アラ、名前さんもしかして眠くなっちゃった?」
「ちょっとだけ」
「目とろんてしてるもんね。…他何か手伝えることある?」
「…」

ここで、二つ目の問題だ。シャワーを浴び終え脱衣所に降り立った時に気づいたのだけれど、肩から腕が痛すぎて、なんと、ブラジャーが付けれなかったのだ。バスタオルで身体を拭く行為すらままならず、静かに「ぃててて…」と呟きながら拭いていた様子は、側から見たら酷く滑稽だったに違いない。

だから、いつもはキチンと下着も付けてお風呂を上がっていたが、今現在、私はノーブラである。分厚目のTシャツを着ているしタオルを肩から掛けていることもあり、恐らく花ちゃんには気づかれていない。

付き合ってもいない異性が二人、一つ屋根の下。女側がノーブラで過ごすのは流石にアウトなのは分かっている。分かってはいるのだが、どう頑張ってもホックが付けれないのだ。涙がじわりと滲むくらいの痛みが走り、何も出来ない自分に嫌気がさして更に泣きそうになったくらいだし。

しかし、これをお願いするのは如何なるものか。花ちゃんの目を汚してしまう事になってしまうし、言ったら言ったで痴女扱いでもされたら私は生きていけない。しかしノーブラという事がバレるのも時間の問題である。……一か八か、言ってみるしかないか。後ろのソファに座る花ちゃんのことは見れないから、床に座った私はそのまま振り返らずに口を開く。

「…すごく頼みづらいんだけど」
「なんでもドーゾ」
「………ブ、ブラ付けるの、手伝って欲しくて」
「………………は?」

ウン、ソウダヨネ。そう言われる事は分かっていたけれど、いざ言われるとなかなか心にグサリと刺さる。こんなオバさんの上半身ほぼ裸みたいな姿、そりゃ見たくないよね。

「やっぱり嫌だよねごめん今のナシ」
「待って今名前さんノーブラって事?」
「オブラート包もうか」
「いいから答えて」
「…そうだけど……」

後ろからの圧が凄い。しかも盛大に「ハァ〜〜〜〜……」と溜息のオプションまで付いてきた。もう私はお終いかも知れない。付き合ってもない男にブラの装着を頼むだなんて、そりゃ痴女以外の何者でもないよね。

「勘弁して下さい」
「うん…ごめん」
「どれだけ我慢させたら気が済むわけ?」
「うん…ごめ………ん?」
「まぁいーや。…イーヨ。何でもしてあげるって言ったじゃん俺」
「え、でも…いいの?」
「むしろ名前さんは平気なわけ?」
「…私は助かるから良いけど………」
「そういうとこだよ名前さん」

そう言うと花ちゃんは「ブラどれ?」なんて私の下着コーナーを何食わぬ顔で漁っている。ちょっと恥ずかしい気もするけど、私の下着も洗濯してくれているし、今更何を改まって恥ずかしがっているんだろうか私は。ただ、頭と心がぐるがるとした渦に包まれながらも、気づいたら私は「く、黒のやつ…」と小さい声で答えていたから、花ちゃんのペース、恐るべし。

私のブラを片手に戻ってくる花ちゃんの顔は直視できないけど、どこか怒っているような雰囲気を感じ取ってしまい、私はとんでもない事をお願いしてしまったのだと早くも後悔の波が押し寄せる。

「脱いで」
「………目瞑ってて」
「それは良いけど、流石にホック付ける時だけは開けっからね?」
「…わかってる」

脱がないと何も始まらないのは分かっているけれど、ダイレクトに「脱いで」なんて言われると恥ずかしくて仕方ないし、心臓がドキドキと音を立ててしまっているのも否定できない。震える手でTシャツとキャミソールを一気に脱いで恐る恐る振り返れば、約束を守ってちゃんと目を閉じている花ちゃんがそこに居た。あ、意外とまつ毛長い、だなんて現実逃避にも似た事を思いながら、彼の手に握られているブラをそっと受け取る。

そうしてブラを装着し終え、いよいよホックだけというところまで来た。腕は回せないから、前部分が肌から離れないよう抑える事しかできない。胸に置いた手に自身の心音が直に伝わり、自分の中で余計に緊張が高まっていくのを感じてしまう。

「…準備できた、よ」
「ん。じゃー目開けるよ?」
「うん」

空気で伝わる、彼の手が私の背中に近づいてきているという事に。そしてその指先がホック部分に触れたと同時に、背中にも彼の肌の感触が伝わってしまい、私は思わず身体を跳ねさせてしまう。

「ご、ごめ…」
「名前さん背中弱かったりすんの?」
「…揶揄わないで」
「ごめんごめん。…じゃ、留めまーす」
「ん、お願いします」

彼がそう言ってからはもう一瞬だった。パチン、と音がしたわけでもないけれど、静かにホックが留まったのを背中越しに感じ、私は一安心のため息を零す。良かった、これで何とか明日のお風呂まで乗り切れそうだ。

そう安堵して腕に引っ掛けていたキャミソールとTシャツを着ようとしたその時、後ろから伸びてきた腕にその行為を止められてしまう。

「え、花ちゃん?」
「…俺じゃなくてもお願いしてた?」
「え…?」
「誰にでもこういうこと言ったりしちゃうの?名前さんは」
「…」

そう問われて、頭の中で必死に考える。果たして、花ちゃんじゃない異性に私は同じ事を頼めるのか、と。同じ状況下で想像してみたけれど、頼めない。と言うより、頼みたくなかった。花ちゃん以外には、どうにもそこまで心を許せない。

「…言えない」
「本当?」
「ホント。今、考えてみたけど…花ちゃんにしか頼めない」
「……フーン」
「なんでだろうね、…っひ!?は、花ちゃん!?」

花ちゃんにしか頼めないだなんて不思議だなぁ、と呑気に思いながら受け答えをしていたら、突如背中にツ、と指を滑らされた感覚が伝わる。紛れもなく、花ちゃんの指だ。

「…嬉しいけど、俺以外にはゼッタイ言っちゃ駄目だかんね」
「わ、かった…けど、あの、服…着させて?」
「ヤダ」
「やだ?!」
「俺手伝ってあげたもん、ちょっとくらいワガママ聞いて?」
「ワガママ、とは」

未だに後ろを振り向けずに居ると、今度はあろう事か、ザラついた何かが頸に触れた。少しだけひんやりとしたその箇所にぶるりと身を震わせると、続いて小さな痛みが走る。

「な、待って、何を」
「犬のマーキング」
「へ」
「俺、ご主人様のこと大好きだからさ」

だから、ペットのこと捨てないでね?なんて、悪戯な色を含んだ声が後ろから聞こえてきて、ぞくぞくと身の毛がよだってしまった。

どうやら私は犬ではなくて、人間の姿をした野獣を飼っているのかも知れない。




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