「おーし、じゃあ今日はこれで終わりなー」

教室に一日の終わりを告げるチャイムが鳴り響く中、その音に隠れるように私の心臓は今、バクバクと音を立てている。

授業終わりと同時に緊張で吐きそうになることなんて、普通に生活していたらまずないだろう。けれど、今日ばかりは仕方ないのだ。朝から胸のざわつきが取れず、授業中もお昼休みも、ずっとどこか上の空だった。

「スガちゃんおめでとー!」
「おー!ありがとな!」
「先生いくつになったの?」
「22!大人だろ?」
「オッサンじゃん!!」
「そんなこと言ってると内申点下げんべー?」
「え〜!!?」

和気藹々と楽しそうに喋るクラスの女子に囲まれる中心人物は、皆大好き、菅原先生。正直、一目見たその時から「あ、好きだな」なんて思ってしまった。俗に言う、一目惚れってやつ。まさか人生で一目惚れを経験するだなんて思いもしなかったけれど、こういうことを言うのか、と実感したのが二週間前。

そして彼が来てからちょうど二週間が経つ明日は、彼がこの学校で授業をする最後の日となる。どうして教育実習って、こんなにも短いんだろう。もっと、一ヶ月くらいあったって良いのに。

「それよりお前らそろそろ部活行かなくて良いの?」
「あ!やばいじゃん!行こ行こ!」
「じゃーねスガちゃん!!スガちゃんもさっさと帰って彼女にでも祝ってもらいなねー!!」
「余計なお世話だっつーのー!!」

バタバタと彼女達が部活動へ走り去っていく姿を、菅原先生と私は見届けていた。すると賑やかな雰囲気は一瞬にして消え去り、教室には静寂が戻る。今、この教室には、彼と私の二人しかいない。私が誰もいない教室のドアを見つめていると、ふと視線が自分に注がれたのを感じる。

「苗字も。帰んなくていーの?」
「…帰りたくない」
「どした、えらい落ち込んじゃって。家で嫌なことでもあったか?」
「……」

ペタペタと気が抜けるようなスリッパの音が、段々と大きくなってくるのを感じる。しかし直ぐにその音は止まり、代わりに椅子が床に擦れる音がやけに耳に纏わりついた。菅原先生が、私の目の前に座った音だ。

「何か悩み事でもあんなら聞くけど?」
「……帰っちゃったら、…もう先生と会えなくなっちゃう」
「…まだ明日があんべ?」
「でも、…寝たら明日が来て、その明日もすぐ終わっちゃうもん」
「まーそうだな」
「そしたら、先生は居なくなっちゃうでしょ?」
「俺が死ぬみたいな言い方じゃん」

菅原先生は死なないけれど、私は死ぬようなものだ。二週間前に会ったあの日から彼に対して生まれた、ちいさな恋心。日々を過ごしていく中で、それは少しずつではあるが膨らんでいって、もう自分一人では抱えきれない大きさにまでなってしまっている。

「まぁそんだけ苗字が別れを惜しんでくれんのは嬉しいけどな」
「…先生は、寂しくないの?」
「バーカ、寂しいに決まってんじゃん。たった2週間だったけど、皆が俺のこと慕ってくれたのめちゃくちゃ嬉しかったしさ」

そう苦笑いしながら喋る菅原先生は、窓の外から差し込む太陽の光に照らされて、その綺麗な銀髪がキラキラと反射して輝いている。その姿は、眩い夕陽に攫われて呆気なく消えてしまいそうな儚さを含んでいて、“もしかしたら、本当に一生会えなくなるのかも”と、なんだか無性に泣きそうになる。

「…行かないで、先生」
「……泣くのはまだ早いぞ苗字ー?」
「まだ泣いてないもん」
「ハハッ、泣きそうではあるんだ」
「だって、」

だって、来年はもう先生の誕生日を祝えない可能性の方が高い。連絡先を交換しているわけでもない、付き合っているわけでもない。ただの教育実習生と、生徒の関係。これっきりなんだろうなと思えば思うほど、鼻の奥がツンとしてしまうのだ。

抱えきれないほど大きくなってしまった私の気持ちは、涙となって溢れ出てしまいそうになる。このタイミングで泣くなんて、先生を困らすだけに違いないんだから、我慢しないといけないのに。グッと唇をキツく噛み締め、震える声で私は続ける。

「もう、会えない、…じゃないですか」
「そんなことわかんねーべ?」
「だって、連絡先も知らないし」
「まぁ簡単にホイホイ教えるのは禁止されてるからなー」
「…」

やっぱり、そうなんだ。教えてほしい、と勇気を出して言おうと思った矢先そう柔らかく拒まれてしまい、私はさらに泣きそうになる。どうして、ただ一人の人間を好きなだけなのに、教育実習生と生徒という関係だけで交わることが許されないのだろう。こんなの、あんまりだよ。

「………ま、どうしてもって言うんなら教えてあげてもいいけど」
「っ…ほんと?」
「苗字だけ特別にな?他の奴らには、ナイショ」

悪戯っ子のような表情でニカッと笑う菅原先生は、胸元のポッケに差し込んでいたペンを取り出して「苗字ノートある?」と話を進める。

これは、期待しても良いのだろうか。私だけ、先生の連絡先を知って、皆には秘密でこっそりとメールをしたり、あわよくば電話をしたりしても、良いのだろうか。

不安と期待が入り混じりながら恐る恐るノートを差し出せば、先生は一番最後のページを開いてカリカリと文字を連ねていく。伏せられた睫毛は、ずっと見ていたいと思ってしまうほど長く美しいけれど、これも見納め…になるんだろうなぁ。

「ほいドーゾ」
「え…本当に良いの」
「先生は嘘つきませんからね!」
「嬉しい。早速登録し「あーダメダメ!家に帰ってからにして!!」
「……どうして?」
「どうしても!!先生の言うことはちゃんと聞いた方がいーべ!」
「…わかった」

ノートを捲ろうとすれば少し慌てた様子でそれを止める菅原先生。何故頑なに帰宅してからの連絡先登録を推奨するのかは分からないけれど、万一このやりとりを誰かに見られでもしたら良くないのかも知れない。そう思い、私は素直に従うことにした。

「さ、俺の連絡先もゲットした事だし!暗くなる前に苗字は帰れよ?」
「先生は帰んないの?」
「俺はまだやること残ってんの」
「え…ご、ごめんなさい引き留めちゃった…」
「暗い顔して泣きそうな生徒、放っとくわけにはいかねーべ。気にすんなー!」
「わっ」

そう言いながら、先生はわしゃわしゃと私の頭を撫で回す。結構強めに撫でられたおかげで髪の毛はぐちゃぐちゃに乱れてしまった。先生の前では、なるべく可愛い自分でいたいのに、当の本人のせいで台無しである。「も〜…先生、強すぎ」と小さな声で文句を垂れながら髪を整えていると、「そういえば、俺も苗字から欲しいモンあんだけど」という言葉が聞こえてきた。

「え?私から欲しい物、?」
「そそ」
「…なんですか?」
「"お誕生日おめでとう"って、まだ言われてないんだよなー苗字から」
「あ…」

さっきまで覚えていたのに、どうして忘れてしまったのだろう。ちゃんと「おめでとう」と伝えたかったのに、明日で先生と会える毎日が終わるという事実があまりにもショックで、その負の感情が脳をすっかり支配してしまったようだ。

「……先生とお別れが寂しくて、そればっかり考えちゃってた」
「このこの〜!可愛い奴め〜〜」
「わ!もう、せっかく直したのに!!」
「…で?誕生日プレゼント、くれる?」
「……当たり前じゃん。…お誕生日おめでとう、菅原先生」
「おう!祝ってくれてありがとな」

自分に向けられるこの屈託のない笑顔も、もう見れなくなってしまうのだろうか。けれど、私からの祝いの言葉を嬉しそうに受け取る先生を見ていると、私まで嬉しいような、…それでいて、切ないような。

「ヨーシ!じゃ、気をつけて帰れよー」
「………わかりました。…また明日ね、菅原先生」
「明日はいつもみたいに元気な顔見してくれよなー?」

そう挨拶を交わし手を振る先生との別れを惜しみながら、私は一人寂しく帰路に着く。校門を出て、視線を落とした先に伸びている黒い影を見つめながら歩いていると、ふ、とノートの存在を思い出した。

「どうして家に帰るまで見ちゃダメって言ったんだろ…?」

一度気になり出すと、もう頭の中はそれでいっぱいだ。帰宅してからと言われたけれど、もう今見ても良いのではないだろうか?ちょうどこの先に公園もあることだし、そこで連絡先を登録してしまおう。そう思い立った私は歩くスピードを少しだけ早め、公園に着いてからベンチに腰を下ろした。

「えっと、ノート、ノートっと…」

段々と日が落ちてきているし、視界が薄暗くなり始める前に見ないと。はやる気持ちでノートを取り出し、開いた先に現れた文字列。それを視界に入れた瞬間、ぐにゃりと文字は曲がり読めなくなってしまった。

“苗字はもう、菅原先生の特別になってるよ。※特別の意味、辞書引いてもわかんなかったら↓に連絡すること!”

その一文と共に記された、電話番号。無性に愛おしくて抱きしめたくなるその数字を指でなぞれば、彼の暖かさが伝わったような気がして、私はノートに大きな染みを作る。

ねぇ、菅原先生。知ってると思うけど私、国語は少し苦手なの。ここでの"特別"がどんな意味を表すのか。先生なら、優しく教えてくれるのかな。

そうして私は帰宅してから、震える指で十一の数字を携帯に打ち込んだのだった。




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