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私はそこそこ名のある妖怪仙人、(名前)。人間界に干渉しまくる女狐こと妲己に色々利用されるのが嫌で、いつも理由をつけて彼女から逃げていた。
そんな折、暇つぶしも兼ねて金鰲島をうろついていると、とても面白い玩具を見つけるに至る。
「あなたの名前は?」
「王奕……」
辿々しく告げられた名前は、何もない無機質な部屋の壁に吸い込まれていくだけ。辛うじて正気を保っていたキラキラの目は、いつの間にか光のない虚な目になった。その代わりようを受け、妲己が一枚噛んでいることにすぐ気づく。
「妲己に壊されちゃったのね……もっと私が見ていればよかった」
私はあくまでも妖怪だから、今の彼がかわいそうだなんて思わない。むしろ人間の時よりいい色の肌と瞳がそこに出来上がっている。しかし、王奕という人間が妲己の手により妖怪へと上書きされた事実を考えるとなんとなく、嫌だった。
私だったらもっと、彼を素敵な人に仕立てられたのに。
これは、おそらく軽い嫉妬のようなものなんじゃないか。
「でも……」
あの妖狐に敵うはずがない。それはずっと前から思い知らされている。
だから、十天君を束ねるリーダー『王天君』として動くようになった彼を密かに支えることで、自分の後悔と無力さをやりすごしたのだった。
「おはよう王天君、今日も素敵な朝よ」
「……」
「挨拶くらいしなさいよね。あなたより何十年も先に生きてるのよ、私は」
「うっせえぞババア」
ババアと言われて今さらキレたりはしない。先輩という存在は、相手と同じ土俵で争わないから成り立つのだ。
「王天君は私より後輩だものね。何をしても怒らないわ」
「なんだよそれ」
「あとはね、妲己があなたのお母さん代わりだっていうなら、私がお姉さんになってあげる!」
「はぁ?」
そうして満面の笑みを浮かべ仁王立ちしてみるも、男は終始首を傾げている。私は自信満々で告げた。
「なんか、ほっとけないんだよ。王天君のこと」
「そういうのはいらねえな」
「可愛くないなぁ」
「可愛いと思われたくてやってねえ」
はいはい、と頷いたところで王天君は私から視線を外して、そっぽを向いた。
「……ったく。いちいち俺に絡んでくるやつでうるせえのはお前だけだったぞ」
「なにそれ!」
「お前も物好きだよなぁ、(名前)さんよぉ」
一向に彼と視線が合わなかった。王天君は続けた。
「通天教主サマがあんなになっちまって、妲己も聞仲もいねえ今、ここには雑魚妖怪しかいねえ」
「うん?」
「どこを探しても俺みたいにクレバーで素敵なやつはいない」
「私が雑魚で馬鹿だっていうのね?」
そう告げると、彼は私の左手をかっさらうように掴んだ。なんだと思って見ていると、次に王天君は私を強引に引き寄せてきた。
「ちょっと……」
「馬鹿な妖怪は血の気が多い。実力が全てなんだろ?」
「え?」
「お前と俺。どっちが上か、分からせてやろうか」
そうして、王天君は私の手の甲を自分の口元へあてがうと、薬指を勢いよく噛んだ。白く鋭い歯が当たる。痛い。しかし、噛み跡が残ろうが傷になろうがすぐに再生する。どうということはない。
不思議な目をして彼と視線を交わらせる。男は言った。
「覚えておけよ、この痛み」
「王、天君?」
「お前の指をこうやって噛みちぎれるような強え男は、俺くらいなもんだ」
「噛みちぎる?」
「お前みたいにムカつくうぜえ女には……エンゲージリングなんてものは似合わねえしな」
「……え、えんげーじ? りんぐ?」
「はっ、馬鹿な女」
馬鹿だとなじられても嫌な気はしなかった。どちらかといえば、彼との接点が途切れてしまうことの方が辛い。痛みでさえ彼と繋がっている証となるなら、喜んで私は自分を差し出す。
「あなたの気が済むなら、好きなだけ食べていいよ」
「……」
「殺したいならそうすればいい……あなたがそうなったのは、何も出来なかった私のせいでもあるから」
「(名前)……」
「ごめんね、王奕」
彼の本当の名を告げる。今の私はきちんと笑えているだろうか。申し訳なさが滲み出てしまえば、彼にいらぬ気を使わせてしまう。しかし、残酷にも私の目元からは後悔という名前の雫がぽたりと落ちていく。慌ててそれを拭った。
「なんでもないの」
さらりと言っても、心に深く刺さった楔は抜けない。彼の目の前から去ろうと踵を返す。だが、手が繋がれたままだったことに気づく。
「……もう俺に会いにくるな」
「やだ」
条件反射的に、首を振る。しかし、男は私の頭をがしっと掴んだ。それから、うるさいと言わんばかりの唐突なキスで口を塞いできた。
こんなことをされたら頭がぐちゃぐちゃになる。
「本当に馬鹿な女だよ、お前は」
「馬鹿でもいい」
私の背後に王天君の空間術が迫っている。あと少ししたらこの空間から締め出されてどこか遠くに飛ばされる。その現実を知り、さらに泣いた。私の泣き声を聞きたくないという意思表示の表れなのではないか。
だから、私はまた彼に会いに行く。やられっぱなしは悔しい。じんじんと痛みを放つ薬指の責任だって取ってもらわないとならない。
「あー……何してんだろ、俺」
「待ってよ、王天君!」
「お前は俺の期待を裏切らない女になれるかな?」
最後に聞こえた彼のセリフは、私の心をさらに乱していく。だって、彼の目は王奕を捨てた時みたいに悲しい色を宿していたから。
none
(そこには何もないと思っていたのに)
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