Two gravity
「ただいま、シンク」
「おかえり。フローリアン達はもう寝たよ」
「今日も遅くなっちゃったな……」
彼女が帰ってくるのはいつも遅かった。導師となるために一生懸命に勉強しているというが、僕をほったらかしにしてまで偉い奴になろうとするとはいい度胸だ。だから僕は、毎日彼女の帰りを静かに待つことで嫌がらせをしてやっている。
「ねぇ、僕を自分勝手に庇って生かして、満足かい?」
「もう、またそういうこと言って。フローリアンと大違いなんだから」
そう言って、女はふふっと笑う。あの時、僕は消滅するはずだった。しかし、この女のわがままによって僕はこのくだらない世界を生きる羽目になってしまった。
(名前)という女は、欠陥だらけの僕のことを好きだと言った。そんな馬鹿みたいな理由で生かされた。次に、(名前)はレプリカの僕が幸せに生きられる世界を作ると言った。そして最後に、空っぽの僕の心を私が埋めてやる、とみっともなく泣き喚いて僕を抱きしめてきた。この時、反吐が出るほど気持ちが悪いと思っていたはずなのに、人間がどうしてこうも温かい生き物なのか疑問に思うようになった。
それから、彼女の家族とフローリアンと共に過ごすようになった。どうせ僕は導師イオンの代わりなんだろうと高を括って彼女を見ていた。しかし、彼女は僕といると導師イオンには見せなかった表情をする。林檎のように頬を赤らめたり、目が合うとすぐに視線を外したり、そんな馬鹿丸出しの反応を見ていると、不思議と生きている感じがして胸のどよめきが落ち着いた。
彼女の一方的な約束が僕をこの世に繋ぎ止めているだけだと思ったのに、彼女は意外にも『シンク』という人間を見てくれていたように思う。イオンと重ね合わせることもしない、フローリアンを押し付けることもしない。それが思ったより楽だった。
「シンク、今日は説法代がっぽり稼いできたのよ!」
「汚い金じゃないだろうな?」
「きちんと施設の中で話したもん。前の私とは違うのよ」
「金にがめつい女は嫌われるぜ?」
そんなことを言ってると、みるみるうちに(名前)の瞳が曇っていく。ああ、こうなると少し面倒だ。
「……私のこと、嫌いになった?」
「いや、その……」
「少しでも楽をさせてあげたくて。お父さんもお母さんもあんなだし、フローリアンはまだ小さいし。それにね」
「ん?」
「もっとシンクと一緒にいたいから、頑張って稼ぐの。こういうのはね、出来る人が頑張ればいいかなって思ってたんだ」
「(名前)……」
疲労をひた隠しにしながら、無垢な笑みを浮かべて純な言葉を紡ぐ女を見ていると、いつも考えることがある。どうしていつも僕は棘を含んだ冷たい言葉しか選び取れないんだろう。今よりももう少しだけ優しくなれたら、彼女にもっと幸せな笑みをさせてあげられるのだろうか。
「(名前)」
「うん? 何?」
「僕はさ……(名前)の隣にいていいの?」
「いいに決まってるじゃない。もう何度目よ?」
答えを聞く前に、すでに体が動いていた。綺麗な笑みを浮かべて頷く彼女をソファに座らせ、僕もその隣に座る。しまった、何か飲み物でも取ってくればもっと喜んでくれただろうか。こいつといると、昔より頭がぐるぐるに掻き乱されるから厄介だ。
「ねぇ、シンク。お茶でも飲まない?」
「いいけど……」
「私、準備してくる」
ああ、また彼女にやらせてしまった。こんな不完全な自分が彼女を幸せに出来るわけがない。しかし、(名前)を見ていると、何も考えなくて済む。だから、(名前)のいるあちら側に向かって手を伸ばしたい。それなのに頭がそれをことごとく拒否していく。
彼女は茶器と茶葉を手に取り、手際よく茶を淹れていった。何か出来ないことはないかと周囲を見渡す。そうだ、焼菓子が上の戸棚にあった。フローリアンが寝付く前、物欲しそうに棚を見上げていた。
「たしか、ここに……」
「きゃっ」
ふと、僕が戸棚に手を伸ばした瞬間、彼女と盛大にぶつかってしまう。(名前)が持っていた空のティーカップは、真下に落ちて足元でパリンと割れた。
「大丈夫か?!」
僕は慌てて彼女の手を取った。欠けて割れた脆い食器なんかより、彼女の手を縋るように握っていた。やはり、彼女は温かい血の通った人間だった。指先を眺める。傷ひとつない。同時にこんなに美しい指先で稼ぐ金は、どうやっても汚い金になるはずがないじゃないか。僕は、悔しくて唇を噛んだ。
「シ、ンク……?」
「(名前)に怪我がなくて、よかったよ」
「食器が割れれただけだよ。気にしないで。あっ、そうだ。今度、新しいカップ買いに行こっか?」
「嫌だ」
そう言って、僕は彼女をひしっと抱きしめた。
「あ、の……」
「(名前)」
「うん」
「好きって何?」
彼女のことを考えて、その柔い肌に触れているだけで、胸の奥が満たされている自分がいる。その感覚が不思議でたまらなかった。でも、僕は決して馬鹿ではないだろうから、この感情に名前をつけることも躊躇なく出来る。それから、(名前)の愛らしい両目と視線をかち合わせる。彼女は口角を上げてまた笑う。
「きっとこういうことだよ、シンク」
おもむろに(名前)は、僕の両頬を包むように手を添えた。ああ、こうするってことは瞳を瞑らないといけなくなる。僕はゆっくりと瞼を閉じた。
「いい?」
「ああ、いいよ」
次に彼女は僕の腕の中で小さく背伸びをした。唇に同じような柔らかいものが触れてくる。
「ありがとう、シンク」
「……」
そして、彼女の唇はするりと離れていった。ゆっくりと瞼を開け、照れ臭そうな彼女を見つめる。僕は触れられたそこを指先でなぞった。まだ熱いような気がする。だが、彼女から与えられたその温もりすら嬉しいと思った。喜ばしいことのように感じた。
難しいことは何も考えずに生きていていいんだと、無条件にそう、思えたからだった。
「って、割れちゃった食器片付けなくちゃ。皆、怪我をしちゃう」
「……」
それに、僕はいつの間にか瞼を閉じることが怖くなくなっていた。目を開けると、毎日必ず彼女と彼女の両親とフローリアンがいる。
「僕も、手伝いたい」
「えっ?」
「(名前)が気に入ってたカップだったろ? 壊れても……直せるかも知れないじゃないか」
「……シンク」
彼女からの視線を受けながら、大きく割れた破片を集めた。粉々になったわけじゃない。まだ大丈夫だ。この程度なら、特別な力がなくたって直せるはずだ。
「それに、礼を言うのは僕の方だと思う」
「うん?」
彼女はいつもと変わらず、陽だまりのようににこにこ笑っていた。
「それから、(名前)。その……僕は」
調子づいてしまった僕は、深呼吸を一回挟んだ。明確な羞恥を胸の奥底に追いやってから、彼女にシンプルな言葉を一つ、贈る。
Two gravity
(君の隣にいたいんだ。今も、これからも)
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