春意
数日前に卒業式を終え、明日から春休みに差しかかる。私はそっと席を立ち、窓の奥を眺めた。春の装いを始めた微風と陽光が降り注いでいる。それなのに、私の心は一向に晴れないままだ。
「あれ? (名前)、帰るの?」
「うん。もう三年生も卒業しちゃったし、部活もやることないもんね」
友達に別れを告げ、何度も眺めた教室の一角を覗く。そこにはいつだって喜多川祐介という、将来有望なアーティストが座っていた。私が顔を向けると、不思議と目が合うことが多かった。しかし、彼との接点はそれ以上でも以下でもない。
ふと彼の座席を見つめる。今日に限っては、一度として視線が交わらなかった。私は嘆息し、教室を出た。
「ずっと好きだったのにな」
美術の特待生で、美術館に作品も飾られて、あらゆる賞を総なめにしている彼は、私と全く違う世界を生きている。そんな彼が凡人である私と交わるはずがない。ただただそれが悔しかった。
「来年は同じクラスじゃなくなっちゃうかも知れないなぁ」
そんなぼやきを春風に乗せて、最後のため息を吐いた。勇気を出して告白したかったが、一度だって出来なかった。彼は美術室に篭りきりかと思いきや、渋谷で秀尽の生徒さんと歩いているところをよく見た。その表情は、私なんかといるより楽しそうで声をかけるのも気が引けた。
「美肌青汁、一つください」
「お買い上げありがとうございまーす!」
彼がよくいた渋谷の地下通路にやってきた。今日は私の方が先に来たからここに彼はいない。おそらく、喜多川くんは来ないだろう。また秀尽の生徒と遊びにいくはずだ。私はそこらへんで売っていた青汁ドリンクを啜った。やはり甘くはないか、と顔を歪める。馬鹿みたいだと思った。
「(苗字)さん、あの……」
「え! 喜多川くん?」
ふと、声をかけられて視線を上げる。なんと意中の彼がそこに立っていた。眉間に寄せていた皺も一気に消えた。
「どうしたの?」
「よければ……これから二人で出かけないか?」
「え?」
思わず言葉を失った。何故そんなことを言ったのか、皆目見当がつかない。
「蓮……いや、大事な仲間もいなくなり、このままでは駄目だと思ったんだ」
「秀尽の生徒さん?」
「ああ。遠くに行ってしまった」
「そっかぁ……春は、出会いと別れの季節だもんね」
そう告げると、喜多川くんは静かに頷く。儚げな表情を浮かべ、悲しみ一色の目元が長い前髪の奥に佇んでいる。
「仲間達ともあまり会えなくなりそうでな。だから、俺はもっと堂々と胸を張れる自分になりたかった」
そう呟く薄い唇は、口角を上げていく。なんだろう、以前の彼ならばこんな表情をしなかった。私は、蓮という人に淡い嫉妬を覚えた。
「それじゃあ、私、美術館に行きたいの」
「それは構わないが、何故だ?」
「喜多川くんの絵が見たくて」
「意外だな……君もアートに興味が?」
「あなたに興味があるの」
ああ、変に口を滑らせてしまった。慌てて口を押さえると、喜多川くんも同じように目をぱちくりさせてくる。ふふ、と笑いながら私は上機嫌で上野を目指した。
「わぁ、この絵、喜多川くんが描いたの?」
「ああ、そうだ」
「うん、やっぱりすごい」
芸術のいろはは詳しくは分からない。だが、彼がどんな思いを込めてこの絵を描き上げたのか、気になってしまうほどに興味深い絵だった。彼の解説をしっかりと聞きたい。そう思って目を合わせる。今度はきちんと目が合った。私はにこりと笑って、彼に問いかける。彼は辿々しく言葉を吐いていた。
「……というわけなんだ」
「へぇ……勉強になるなぁ」
「そうだったか?!」
「うん」
彼は照れ臭そうに腕を組み直した。それから細い指先で前髪を整えていく。
「(苗字)さん」
「ん? なあに?」
「こんな絵を描く人間をどう思う? 変わり者だと思うか」
変わり者、と私に告げたところで彼は、盛大なため息を吐き出した。それを聞き、数ヶ月前から流れていた校内の噂を思い出す。奇人変人だとレッテルを貼られ、いつも居心地悪そうにしていた彼。そんな学校で友達を作ったりするのもかなり難儀したんじゃなかろうか。私はいたく反省した。彼のことを思ったら、もう少し早く声をかけてあげることも出来ただろう。
「変わり者じゃないと思う」
「そうか」
「むしろ、大好きかな」
今までの時の隔たりを取り戻すように微笑んだ。それから喜多川くんは、私の言葉の表層を受け取り、綺麗に頬を赤くしていく。
「だから……嫌じゃなかったら、もっと教えて。アートのこと」
「わ、分かった!」
「あとはそうだなぁ。私と話すのに慣れたらでいいの。喜多川くんのことも沢山知りたい」
そう言って、彼の細い指先を握った。こんなに冷え切った指先は、私の体温で徐々に温かくなればいい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……これからもこうして、会ってもいいか?」
「いつでも、待ってる」
そうして私に向けられた笑みは、今までで一番いい顔をしていた。まるであの秀尽の生徒さんと話している時みたいに、彼の瞳は綺麗に輝いている。ようやく私と彼の好意は、繋がった。
春意
(出会いと別れの季節)
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