白が二人を結ぶまで
午前10時。そろそろ店をオープンする時刻にさしかかる。朝早くからスイーツの仕込みを終えた私は、レジ横のバインダーをじっと眺めた。来店予約表と書かれた書類の一番上に、中国人らしき苗字が書いてあるのを確認する。それから予約席のプレートを手に取り、見晴らしのよい窓際の席に静かに置いた。
「趙さん、元気にしてたかな」
以前、私が転職したての頃にフルーツタルトを大人買いし、その味を気に入ってくれたのが趙さんだった。このパティスリーに一人で何度か足を運ぶこともあったが、今日の予約は珍しく二人。どんな方が訪れてもいいように、予約席を綺麗に整え、メニューを二つ揃えて並べる。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
カラン、とドアベルが鳴り響くと、趙さんのいつもの緩い笑みが視界の奥で揺れた。今日も元気な顔を見れてよかったと安堵すると、彼の後ろに一人の女性が佇んでいるのに気づく。
「天佑、もしかしてここって?」
「そっ、俺のお気に入りのお店の一つ」
明るい髪色で結われた三つ編みを揺らしながら、彼女はあどけなく笑っていた。
「わぁ、私ここのケーキ好きなんだ。ありがとう、天佑」
「どういたしまして、(名前)ちゃん」
そして、彼女は私にしっかりと視線を向けた。(名前)ちゃん、と呼ばれるこの子も何回かこのお店に来たことがある。いつも真剣にモカに合うケーキを選んでいたっけ。普段より緊張感の取れた趙さんの顔を見るに、彼女が言っていた幼馴染というのは、きっと彼のことなんだろう。
「(名前)ちゃんに趙さん。今日はサンジェルマンの中でもとびきり素敵な席を準備していたので、ゆっくりしていってくださいね」
「ええ? それVIP席とかいうやつ?」
「そ、そんな席があるんですか?」
「お誕生日みたいとか思ってない?」
「もう、私だって子供じゃないんだから」
「コーヒー苦手なのにね」
そして彼女は「うるさくしちゃってすみません」としっかり腰を折ってくる。しかし、趙さんはいつもより饒舌で嬉しそうだ。
そうか、今日の主役はきっと、ケーキではなく彼女か。そう思いながら裏方に徹する私だった。
ただ微笑むだけで何も言わない趙さんの目配せを受け、私は小さく頷く。仲良しな二人を席へ案内し、落ち着いた頃合いでメニューを聞きにいった。趙さんはいつものようにフルーツタルトとモカブレンド。一方、(名前)ちゃんはまだメニュー表を睨みつけていた。
「(名前)ちゃんは何がいいですか?」
「うーん……」
「あー、メニュー見てパンクしてるんじゃ?」
「ち、違うよ!」
「じゃさ、いちごのショートケーキにしてよ。いつも食べてたじゃない?」
「でも……こういうところでそういうのを頼むのは……」
「大丈夫ですよ。春日さん達も頼まれたことありますし、最近だとジュンギさんかな?」
「へぇ、ハン君もこういうの好きなんだ」
「ええ」
そう言って趙さんに微笑むと、意を決した(名前)ちゃんはメニュー表をぱたんと閉じた。
「じゃあ、私もショートケーキとホットのミルクティーをください」
「はい、かしこまりました!」
それから、(名前)ちゃんと趙さんの憩いのひとときが始まった。普段は体を酷使する大変な仕事をしていると言っていた。だから私にはこのケーキと居心地のいい空間で二人を労うことしか出来ない。そのスタンスは、誰が訪れても変わらない。
二人のもとにそれぞれケーキセットを運んでいき、一礼する。二人が上手くいくよう祈りながら、そっとその場を離れた。
「この前さ、百合の花束くれたじゃん?」
「う、うん!」
「あれさ……悪くなかったよ」
「そう?」
「そのお礼がしたかったってのもあるんだよね」
ふと視線を向けると、趙さんは彼女の頬に手を伸ばしていた。彼の視線を追うと、(名前)ちゃんの頬にささやかながら生クリームがついている。何か拭くものを持っていかなくては、と思った瞬間、趙さんは指でそれを拭い、ぺろりとひと舐めした。
「……好きだよ」
「えっ?」
私は思わず足を止めた。彼のうっとりするくらい甘やかな視線を見ていると、この空間に足を踏み入れてはならないと胸奥が訴えてくる。私は小さく笑みながら、店のカウンターに戻っていった。
「くくっ、ケーキの話さ。勘違いしちゃったかなぁ! ここのクリームって、甘くてほんとに美味しいよねー。(名前)ちゃん」
「ちょ、天佑! からかわないでよ」
「……でも、百合もクリームの白も(名前)みたいでいいよね」
「ええ?」
「また、来ようね」
「うん?」
それから、会計の時に見た趙さんの顔は店に入ってきた時よりも嬉しそうに微笑んでいる。穏やかな幸せと興奮が混じったような素敵な笑みだった。一方、(名前)ちゃんはというとよく分かっていなさそうな面持ちで趙さんをひたすらに眺めている。その愛らしさに、思わずくすりと笑ってしまった。
「可愛いでしょ?」
「お似合いだと思います」
「ありがと」
たった今小さく囁いた彼の言葉はきっと本心。何故なら彼女と同じように無垢で綺麗な輝きを持った瞳をしていたから。
「お二人の思い出のケーキ屋さんになれて嬉しいです」
老舗洋菓子店サンジェルマンの扉をくぐり、二人はまた日常に戻っていく。そんな美しい二人の背にエールを送るように私は呟いた。さぁ、また今日も行列が出来てきた。これからさらに忙しくなるだろう。二人から活力をもらった私もきっと、素敵な顔をしているに違いない。
白が二人を結ぶまで
(何にも染まらない無垢な色)
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