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sacrifice


 
 ある時、兄に呼ばれた。長旅を終え、生まれ育った村で牧歌的な暮らしに勤しんでいる時だった。育ての母は買い出しに行き、昔から住んでいた家には、兄と私しかいない。
 
「(名前)」
 
「何? お兄ちゃん」
 
 兄は昼食を終え、使い古した自分のゴブレットに新鮮な牛の乳を注いでいる。私はまた始まったと、頬杖をつきながら兄の顔をぼんやりと眺めた。
 
「僕のことは気にしないでくれよ。(名前)のおかげで一人で色々出来るようになったし、それに」
 
「お兄ちゃん、言ったそばから牛乳こぼしてる」
 
「う……」
 
「私がいないと本当に駄目ね」
 
 そしてまたいつものように笑い合った。むしろ、そう告げることで私は私を満たしていたのかも知れない。失われつつある役割に、密やかに思いを馳せた。
 
「……では、話題を変えようか」
 
「ん?」
 
 兄は私の手から布巾を受け取ると、黙って机を拭き始めた。それが終わるとゆっくりと席につき、腕を組む。
 
「世界はもう勇者がいらなくなった。つまり、どういうことか分かるね?」
 
「え?」
 
「勇者を支えるための力も、武器もいらなくなった。なんたって、倒すべき魔王がいないんだ。これは当たり前の変化だよ」
 
「うん、そうだけど……」
 
「だから、(名前)。君はそろそろ普通の女の子として生きたっていいと思う。何も罰は当たらないと思うんだ」
 
 さらりと冷静に言葉を紡ぐ兄の唇は、今日に限ってはやけに真面目である。
 
 勇者の力が発現したのは血を分けた双子の兄だけだった。だからそんな兄の片割れとして、少しでも勇者の力になりたいと思った。

 その上、兄のために何かをしている間は、自分が無力でちっぽけで惨めな存在だと感じなくて済んだのだ。私はそっとため息を吐いた。
 
「……またその話? 君には迷惑をかけた、心配させて悪かったって聞くのも、さすがに飽きちゃったよ」
 
「あはは、ごめんごめん。でもさ今日、カミュがイシの村に来るらしいよ」
 
「えっ!」
 
 さらりととんでもない言葉を投げつけられた。すると時を同じくして、村の入口がわあっと沸き立っているのに気づく。はっとして立ち上がった瞬間、とある男が私達の家を訪れていた。
 
「よう、(名前)にイレブン! 元気にやってたか?」

「カミュ!」
 
 視界の奥で青色の直毛が揺れた。どきりとして、そこから視線を外せずにいると途端に顔が熱くなっていることに気づく。思わず頬を両手で包むと、何の手入れもしていない肌の感触が指先を伝った。
  
「や、やだ……なんにもお洒落してないっ!」
 
「(名前)、そんなに気を使うなよ。何を着てたって問題ねえだろ?」

「こっちが気にするの!」
 
 けらけらと笑いながら、全く動じない男に半ば感情的に言葉を吐き出す。すると、隣に座ったままの兄は肩を小刻みに震わせて俯いていく。
 
「……く、くくっ」
 
「何笑ってんだよ、相棒?」
 
「いやぁ、久しぶりに会ったっていうのに二人は変わらないなって」
 
 無垢な瞳を輝かせて笑う兄の表情を見ると、嫌味で言っているわけではないとはっきり分かる。確かにあの時、私達の間に流れていた過去を懐かしむように、兄は嬉しそうに目を細めて笑っていた。
 
 それから母が家に帰ってきて、カミュはいつものように母に鹿肉を渡す。宿代の代わりだと照れ臭く告げるトレジャーハンターがそこにいた。母からの評判もいい。それなのに『仲間』という、これ以上でも以下でもない関係性が私達を繋いでいた。

  *

「……水を、汲んでくる」
 
 夜の帳が下り、闇に浮かぶ月が私を見下ろすようになった時刻のことだった。母手製のシチューを食べ終わり、あとは寝るだけになった。時が進むにつれ、兄とカミュの発話量は徐々に減っていく。そうすると、彼の関心が私に向いてくるのも時間の問題だった。もどかしい関係をはっきりと認識するのが嫌で、適当な理由をつけて私は家を出た。
 
 川辺の桟橋にすとんと座る。体温よりいくらか低い夜風に当たると心地いい。それに蛍も飛んでいる。淡い光の明滅を受けながら、私の顔が映る川面を眺めた。
 
「どうして……こんなにドキドキするの?」

 ただの仲間だったはずだ。それに彼は、あの頃と何一つ変わらないで微笑む。おまけに私のこれからの道を遮るものは何一つない。突然やってきたその自由さが、不器用だった私の生き方にブレーキをかける。
 
「(名前)」

「……わっ、カミュ?」 
 
「水を汲むんだろ?」
 
 そう告げる彼の手には、小さなランタンと木製のバケツが握られていた。出会った時から思っていたが、彼はいつだっていい人だった。

 もう逃げてもいられないかと、私は嘆息しつつ川面に視線を戻した。
 
「カミュはしばらく泊まっていくの?」
 
「ああ、ここら辺で新たなお宝の情報を聞きつけてな」

「そう」

「だからペルラおばさんには頭が上がらねぇよ。いつも宿屋代わりになってくれるしな」
 
「気にしなくていいと思うよ。手土産にお肉とか持ってきてくれるじゃない? お母さん、いつも喜んでたよ」
 
「そうか」
 
 彼は嬉しそうに微笑みながら、私の隣に黙って座った。その視線を辿ると、遠くを見ていても必ず私に戻ってくる。それが妙にこそばゆい。以前はそんなことすら気にしていなかった。しかし、いざ男女二人きりとなると耐えられなくなる。
 
「じゃ、じゃあ……家に帰るね」
 
 私はそそくさと水を汲み、立ち上がった。
 
「待ってくれよ。帰る方向、一緒だろ?」
 
 すると彼はそんな私を制止するように、腕を掴んだ。その所作に驚き、バケツを地面に落としてしまう。慌てて拾おうとする。背後からカミュは言った。
 
「なぁ、(名前)」
 
「ど、どうしたのカミュ?」
 
「このやり取り、いつ終わるんだ?」

「えっ?」
 
 ふと振り返る。そこにはばつが悪そうに頬を掻くカミュの姿があった。
 
「いや、俺も悪かったか……」
 
 意図が読めず、怪訝な眼差しを送りつけてしまう。
 
「もう魔物も出ないんだ。今日はもう少しだけ、二人で長く話そう」
 
「でも……」
 
「お前の兄貴に許可は取ってるさ」
 
 そして彼に座るよう目配せされた。川辺の蛍の光は相変わらずゆっくりと明滅している。私の脈はいつの間にかそのリズムから外れてしまい、次第に早く、うるさく脈打つようになった。
 
「そうだな、おとぎ話なんてどうだ。聞く気あるか?」
 
「うん? いいけど、どうしたの」
 
「……そんな気分なんだ」
 
 彼は一際優しい横顔をしていた。それを眺め、思わずどきりとした。
 
「あるところに、王女さまがいた。その王女さまはいつも一生懸命に兄ばかり追いかけて、自分がぼろぼろになっていることに全く気づいていなかった」
 
「うん」
 
「ある時、そんな王女さまと出会ったのは賤しい身分のごろつきだった。悪いことを沢山してきたからか、その罪の重さに毎日押しつぶされそうになっていた」

 この人は、何の話をしているんだろう。密かにそう思いながら、口を噤んで聞き耳を立てた。
 
「しかし、王女さまと話している間だけは自分が悪者だということを忘れられたんだ」
 
「……」
 
「だが、ごろつきにも罰が当たった。償いから目を背けていたせいで大事なものや記憶を失い、絶望の淵に立たされてしまった。しかし、王女さまは……」
 
「カミュ?」
 
 途端にカミュは口を閉ざしてしまった。怪訝に思い、その顔を覗く。視線が合わない。伏しがちに川面を見ている。
 
「どうしたの?」
 
 畳みかけるように言葉を発すると、彼は私をそっと見つめてきた。
 
「(名前)は、そんな俺を見放すことなく、側でずっと励まし続けていた」
 
「……カミュ」
 
「どうしてだ? 俺を勘違いさせたかったのか?」
 
 彼は、悲しそうに顔を歪めて笑った。
 
「……違うの。だって、私のお兄ちゃんは勇者で、大変で……だから!」
 
「兄が勇者だから俺を助けたのか? 違うだろ?」
 
「その……」
 
「お前は……(名前)の気持ちはどうなんだよ」
 
「私の、気持ち?」
 
 彼は黙って私の手を握った。そこから勢いよく私の方へ身を乗り出してくると、耳元で小さく囁いた。
 
「こんな俺にだって……無性に会いたい女くらいいる」
 
 彼の行動の意味を考えると、魔法にかかったかのように動けなくなった。しかし、明滅する蛍の光を見るほどに私と彼には等しく時が流れているのだと察する。
 
「あはは、なんてな。俺だってはっきり言葉で示してきたわけじゃない。意地悪して悪かったな、(名前)」
 
「……」
 
 すぐに彼は私から手を離した。それが悔しくて、恥ずかしくて、黙することしか出来なくなった。しかし、カミュは臆することなく言葉を連ねてくる。
 
「だが……(名前)とイレブンのおかげで世界は元に戻った。俺とマヤだって、また二人で馬鹿やれるようにしてもらった。恩だって感じてる。もう、それで十分じゃないか」
 
「……うん」
 
 彼はまるでエールを送るかのように私の肩をトン、と叩いた。許されたかったのは勇者になれなかった私なのだろうか。頑張りを認められたかったのだろうか。私は、途端にあふれてくる涙を指で拭い、ひっそりとそれを受け止めた。
 
「だから俺も、男を見せなきゃならなくなった」

 ふとカミュは私に向き直ると、そっと頬に片手を添えた。親指で私の涙を拭いながら、熱心な視線でもって私を射抜こうとする。
 
「……ごろつきはずっと、王女さまが好きだった」
 
「えっ」 
 
「それは今も変わってない」
 
 ああ、だから彼はおとぎ話がしたかったのか。私は頬を濡らしたまま、くすりと笑っていた。そろそろ二人の結末を決めなくてはならない。もう、答えはすぐそこまで迫っている。

「私の気持ちは、こう」 
 
 そう言って彼を抱きしめた。意地悪ばかりされるのは癪だから、至近距離で満面の笑みを浮かべてやる。
 
「好きなのか?」
 
「どう思う?」
 
 距離が近くなっても、ちゃんと二人で笑えるんだ。その変化に気づけば、つかえが取れたように安堵感が体に満ちていった。
 
「嘘を吐くと、ろくなことがないぞ」
 
「ふふ、ごめんなさい」
 
 彼は私をしっかりと見つめた後、そっと顔を近づけ静かに唇を奪った。先刻まで仲間だったのに、唇で触れるようになって初めて違う関係になったと理解する。
 
「お互い、幸せになってもいいんじゃないか?」
 
「私でいいの?」
 
「当たり前だ」
 
 彼はいつものように格好よく笑み、小さく頷いた。そんな顔も、眼差しも、声音も全部好きだった。意識せず、彼の顔を長い間眺めてしまう。すると、あることに気づく。
 
「……カミュ」
 
「ん?」
 
「いい顔で笑ってるね」
 
「誰のおかげだか、分かってんだろ?」
 
 そんな風に困ったような顔をして笑う彼も大好きだった。だから私はカミュに向かって幸福色にまみれた笑みを向ける。
 
「素敵なごろつきさん、ありがとう」

「ああ」
 
「私も最初から……あなたが大好きでした」
 
 亡国の王女とごろつきだった男の物語は、ようやく始まりを迎えようとしていた。
 
 
 sacrifice
(君を苦しめる自己犠牲なんて大嫌い)



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