鏡餅を供える神棚もなければ門松を飾る門もない船上での年明けは、昨日を経て辿り着いたただの今日という新しい一日でしかない。特別なことと言えば謹賀新年に託けて酒をねだられても怒れないコックと、お小遣いをねだられても文句の言えない航海士の姿である。
 しかし嬉々としてお年玉を握るその三つの手が散財する当ても、まだ影すら見えない。次に寄る予定の港町まではあと三日かかるという。見渡す限りコバルトブルーの海の真ん中じゃあ、その使い道をああでもないこうでもないと想像して、期待にぽち袋を膨らませることしか出来ないのだ。
 そうなるとますます正月らしさは失われていく。大晦日の晩から続いた宴のせいで、初日の出を拝んでから眠りに就いた皆の起床時間は正午を回ったが、さすがは一流コックの先を見据えた仕込みのおかげで、お節料理を食いっぱぐれることはなかった。けれどそれを腹におさめた後は、なんてことないいつもの日常だ。これじゃいかんと立ち上がったのが船長で、大樽でも飲み込んだのではと思えるくらい膨らんだ食後のお腹を早々に引っ込めたと思えば、羽子板を作ってくれとウソップに頼み込んだ。
暇を持て余していたのは彼も一緒だ。そのアイディアに乗ったと言わんばかりに、これから何が始まるのかとわくわく胸を踊らせているチョッパーの視線を受けながら、気合いを込めて鋸を握った。
それから男部屋に潜り込んだルフィが墨汁と筆を発掘してくる。もう半年以上前にウソップが購入したものだが、とある町で飾られていた水墨画に感銘を受けて買った張本人は覚えていないだろう。ルフィに至ってはこれは飲み物じゃないとナミに怒られたことで、墨の存在を記憶に残していたのである。
 そういうことで、ひとっところに腰を下ろしていられない三人衆は甲板で羽根突きを始めた。ふわりと重力に逆らう羽根もウソップの手作りだ。交代で審判と選手を繰り返して、羽根を落とす度に、顔面に墨で落書きをされる。元は女児の為の神事であることを知っているのかしら、と呟いたロビンの言葉も聞こえない。彼らから少し離れてお茶の時間を楽しむ女子二人は、遠巻きにその遊戯を傍観していた。
 ラウンドをこなす毎に、羽根を打つ軽快なリズムが連続していく。手先が器用なウソップとチョッパーはすっかりコツを掴んで、長いラリーの応酬を繰り広げる。一方言い出しっぺのルフィはと言えば、そのおおらかすぎる性格が災いしてか、大雑把な空振りばかり繰り返してなかなか羽根を打ち返せない。所狭しと顔中を墨だらけにしてしまったので、寝ていたゾロを無理やり起こし審判の代役を押し付け、今は格納庫前に腰を下ろして切り干し大根を作っていたサンジの元へ避難中である。

「なんだって食後でもねェのにゴムの洗いもんしなきゃなんねェんだ。てめェ下手くそにも程があるぞ」

「もう少しでタイミング掴めそうな気がすんだけどよー! もっかいやりに行くから早く落としてくれ!」

「自分でつけてきたくせに急かすなドアホ!」

 頬や鼻についた粗方の墨は薄くなったが、額には墨で書かれた大きな肉マークが居座っている。サンジはそこに存分に食器用洗剤を泡立てたスポンジを押し当てて、遠慮なしに擦り付ける。ゴム人間はその力加減にも痛みを感じることはないようで、むしろ擽ったそうに笑っては表情筋を動かすなとサンジに怒られる始末だった。
 そうした二人の姿はまるで泡と墨を介して無邪気にじゃれ合っているようにも見える。ウソップとチョッパーが対戦する横で再びの雑魚寝に就こうとしていたゾロが、その騒々しさに片目をこっそり開眼する。寝ぼけ眼が捉えた先に、ルフィの額に顔を近づけて、懸命に墨を落とすサンジがいた。黒い前髪が落ちてこないように押さえているので、左手はルフィの頭を包むように触れている。
それを盗み見れば見るほど、ちょっと思い当たる感情があったので、ゾロの頭は霧が晴れるかのように徐々に覚醒していく。いつものはにかんだようなルフィの笑い声に混じって、時折呆れたようにサンジが笑っていた。表情には出さずにそのやりとりを見つめていれば、審判の視線がないことに気づいたウソップとチョッパーが怪訝な顔をして一旦休戦を設けた。

「なんだゾロ、寝てんのか? しっかり勤めを果たさないとは…このウソップ様が成敗してくれ…」

「…あァ?」

「ひっ…! あ、すすすすいません!」

 羽根を落としたわけでもないのに寝ているのなら落書きしてやろうとこっそり屈もうとしたウソップに、人知れずすっかり睡魔から逃れたゾロが一睨みをきかせる。
 一瞬にして畏縮するウソップの手には墨と筆。彼とチョッパーの顔にもコツを掴む前に描かれてしまった歪な落書きが残っているが、それを目に留めたゾロが閃いたように口にした。

「いいぞ」

「…はい?」

「落書き、してェんだろ? ドンとこい」

「ええー!? 急にどうしたんだゾロ!?」

 ウソップとチョッパーのツッコミにおける目と舌の曲芸は年明けも健在であるが、波立たせた舌を引っ込めて無駄に男前なゾロの態度の意図を探ろうにも皆目検討もつかない。
けれど仕舞いには戸惑うウソップとチョッパーを脅してまで落書きをしろと迫る。何がなんだかわからずともそうしなければ一発殴られそうな気配がしたので、ウソップは仕方なく筆に墨を塗り直した。
両頬に二重丸を書いたり、鼻の頭にバッテンを飾り付けたり。そうこうしているうちにやっぱり楽しくなってきて、墨をふんだんにつけたチョッパーの手形まで額に押されるようになった頃、顔面を小綺麗に洗ってもらったルフィがこちらに駆けてきた。

「おいルフィ! てめェ服には垂らすなよ! 汚しやがったら洗濯板にしてやるからな!」

「おうわかった! 板代わりにされねェように次は勝つ!」

 サンジの忠告にニカッと笑顔を返すルフィと入れ替わり、今度はゾロが立ち上がって輪から抜ける。すれ違い様にその顔面を見たルフィはあんぐりと口を開いた。

「えー!? ゾロも負けたのか!? すっげー真っ黒じゃねェか!」

「いや…何だか知らんが落書きしろと脅されて…」

「スタンプみたいで楽しかったな!」

 ゾロの背中はしばらく三者三様の視線を受け止めていたが、それも束の間、再び羽根突きへと没頭していく三人の笑い声にとって変わる。
 ゾロは無言のまま、こちらも再び大根に手を伸ばしていたサンジのそばに寄って、おい、とぶっきらぼうに声を掛けた。

「クソコック」

「ったく今度はてめェかよクソマリ…モォォォォ!?」

 面倒臭そうに上を仰いだサンジが、ゾロの有り様を目の当たりにして煙草を吹き出す。良いように筆を走らすことを許可されただけあって、先ほどのルフィと張るぐらい顔中が墨で覆われている。無言で立ち尽くしているからなお怖い。
サンジはぎょっと目を見開いて、それから切ない溜め息を吐いてから自分の前の床を指差した。

「そうまでして切り干しを阻止してェのか。保存にゃ持ってこいだっつのに」

「? 切り干し大根は好きだ」

「んじゃわざわざ調理中に来んなバカ! はァーもう全く…余計な仕事が増えてしょうがねェなァ。てめェはおとなしく寝正月堪能してりゃいいのによ」

 指し示された通りに、ゾロはサンジの前に座る。ルフィにそうしたようにまたスポンジを泡立てたサンジが、それをぺちりと頬に押し付けた。
 文句を途切れさせることのないまま、ごしごしと墨が拭われていく。その最中、膝立ちという不安定な体勢を保つため、サンジの左手はずっとゾロの肩をさりげなく掴んでいた。ポーカーフェイスが胸中でほんの少し柔らかな表情になったことを知るのは、誰一人としていないのである。










元旦更新のお礼文でした!

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