ちらほらと空中を舞っていたスノーパウダーが牡丹雪に変わったのは、もう一時間も前のことだ。
船首メリーはすっかり雪化粧を纏って、甲板には踏みつければくっきりと足跡を残せるくらいに白い絨毯が敷き詰められている。そこにいつもと変わらない草履足で降り立つ船長は霜焼けも恐れずに雪だるまを製作中だ。空から降ってくる材料は無くなることはない。麦わら帽子のつばをどれだけ重くしようと、その両手で休むことなく転がして、小さな雪の固まりにたっぷりと肉付けしようと目論んでいる。傍らに船医はいるが、彼もまた雪国育ちに無限大の好奇心が相俟って、船長と一緒に白雪と戯れている。どんなに寒気が増しても赤くはならない青っ鼻で鼻水を啜りながら、それでも響く笑い声は普段より半音は高い。

「降ってきたわねー。ウソップ、前方に異常はなし?」

 はあ…と手袋の上から両手に息を吹き掛けるナミは、後から後から降ってくる雪を避けるようにコートのフードを深くかぶり直し、見張り台の上でゴーグルを装着しているウソップに向かって些か声を張る。メインセイルは限界いっぱいに広がっているわけではないので、ナミの問いはきちんと彼の耳に届いた。

「おう! 今のところ怪しいモンは見えねェ! しっかしこりゃ吹雪くのも時間の問題かもなァ。まだ日も暮れてねェっつーのにこの暗さ…」

「だからこそ危険なの。メリーの前途を守るのはアンタよ。しっかり前見てて」

「そりゃそうだが…ナミ、そろそろおれの鼻にも雪が積もる頃だ」

「長い鼻も考えものね。手袋ならぬ鼻袋でも編んであげましょうか? もちろん有料で」

「…慎んで遠慮します」


 ウソップの体がその鼻を筆頭にぶるりと震える。
そんな彼の忍耐もあって、船は灰色の空の下を徐行しながらも順調に進んでいる。白波を立たす風が強くないだけ寒さが和らいでいるが、いよいよ本降りになった雪はほんの少し素肌に触れるだけでも顔をしかめたくなる冷たさだ。しかもそれだけに留まらず、いつの間にやら前方の麦わら帽子とトナカイは、雪だるま作りから雪球を投げ合う遊びに夢中になっている。ただでさえ視界の悪い中、普段以上に必要とされる航海士の集中力を削ぐには十分な騒々しさだ。

「…ゾロ」

 呼べば斜め前で振り返る男が珍しい。住み着いている船尾はすっかり積雪してしまって、惰眠を貪る居場所を追われたのだ。大口開けていびきをかく代わりに幾度か欠伸を噛み殺しつつ、なんとか覚醒を保っているように見受けられる。目尻にはうっすらと生理的な涙が溜まっていた。

「ちょっとあいつらとっちめてきて」

「…なんでおれが」

「なに言ってんの、お父さんでしょ!?」

「おめェがなに言ってんだ!?」

 誰が誰のお父さんだ! と反論するゾロを無視して、保護者に再教育と制裁を訴えるナミの人差し指はぶれることなく件の問題児らを捉えていたが、ちょうどそれを合図か何かと勘違いしたかのようなタイミングでルフィの手が大きく振りかぶる。その刹那、彼は温かい紅茶の香りと共にラウンジの扉が開くのを視界の片隅に入れたが、今は涎を垂らす暇はない。
上体を反らし、軸足を踏ん張って。渾身の一球を見舞おうと思いきや、目標は確かに目の前で人型に変形しているチョッパーの筈が、雪場に草履が災いして、豪速球がその掌から離れる間際、つるりと踏みこむ足を滑らせた。
あ、と雪にまみれた2人が呟いた時にはすっぽ抜けた雪球が甲板を駆ける。その先にはナミと口論中のゾロの後ろ頭があったが、彼はこちらを見向きもしないまま、ひょいっと首を右に傾けた。障害物に軌道修正されることなく突き抜けた雪玉の先で、軽快な足取りでラウンジを降りてきたサンジが目尻を下げてナミの名前を呼んでいる。

「んナァミさぁーん! 冷えきった君の心を甘く溶かす特製シナモンミルクティーが入ってぶほッ!!」

 ハートを周囲に巻き散らかしながらの軽口は、最後まで科白を紡ぐことが出来なかった。ゾロが避けた雪球のゴールはサンジの顔面となり、万歳と両手を上げたまま微動だにせずに立ち尽くす彼の顔からぽたりぽたりと雫が垂れる。
それを見て青ざめたのはチョッパーで、ゾロは別段気に留めることなく重たそうな瞼を擦っているし、暴投した張本人のルフィは腹を抱えて暢気に笑っている。
サンジはしばらく時が止まったかのようにそのまま雪を顔面に積もらせていたが、突如伸ばした腕でそれらを剥ぎ取ると、赤い鼻や額もそのままに、無言で足下の真新しい雪までかき集めて、先ほどよりふた回りは大きい球を手際よく完成させた。一同が見守る中、それを空中に放ったかと思えば、勢いよくお得意の蹴りに乗せて前方に飛ばす。
蹴飛ばした先にはちょうど欠伸を飲み込んだゾロがいて、蹴ったせいで若干小振りになっても尚、十分に硬度を保ったままの雪塊がその額にヒットした。

「っこの…どこ向かって蹴ってやがるアホコック!」

「寝言は寝て言えクソッパゲ! てめェよくも避けやがったな! 見ろ、おれの高貴な金髪がびしょ濡れだ!」

「水浴びしたひよこみてェでお似合いだ」

「あんだとサボテン!」

 ナミは眉間を押さえて項垂れた。今は見張り台にいるウソップを含めたお馬鹿三人衆は、無邪気だからまだいい。ところが大人気もなく雪球をぶつけ合うこちらの二人は邪気にまみれているから救いがない。
所詮、保護者などと期待するほうが浅はかだったと深く溜め息を吐けば、頭上でラウンジの扉が開いた。

「みんなで雪遊び? 楽しそうね」

 見上げれば人数分のタオルを抱えたロビンが微笑んでいる。まったく世話のやけるクルーばかりの中でどうしてそんな風に柔和な笑みを湛えていられるのかは理解出来ないが、他と違って感情の起伏が激しくない分、まともに会話に付き合ってくれる彼女はナミにとって唯一の心安らぐ存在だ。

「ただ騒々しいだけよ。危機感なくってやんなっちゃう」

「それもそうね。中に入って少し休んだらどう? コックさんの淹れてくれた紅茶、すごく美味しかったわ」

「うん、そうする」

 素直に頷いたナミはデッキに上がり、すれ違い様にロビンからタオルを受け取る。彼女がラウンジの中へ入ったあと、残りのタオルを配る為に階段を降りたロビンは、メインマスト頭上でウソップが声を上げたのを聞いた。

「…なんだありゃあ。コウノトリ?」

 それにつられて顔を上げれば、嘴の赤が寒空に妙に映えた鳥が、大きな翼をはためかせて旋回している。
くるくると、まるでこの船を物色するかのように飛び回り、羽を休めることなく空を切った鳥は一声甲高く鳴いたと思ったら、去り際に便箋のようなものを落としていった。若干右に流されつつ、それはひらひらと回転しながらメリー号に乗船する。ウソップはゴーグルの焦点をアップに変えて眉間に皺を寄せた。

「おーいルフィ! チョッパー! お前ェらのすぐ横、なんか手紙みてェなもん落ちてねーか!?」

 ひとつ翼を上下させる度に驚くほど速度を上げる鳥の姿はもう雪景色に隠れてしまう。
ウソップは鼻の上の雪を人差し指でそろりと滑り落とし、甲板で雪まみれになっている2人を呼び止めた。途端、キョロキョロと辺りを見渡すルフィの横で、同じように視野を広くしていたチョッパーが、雪と違わぬ程に白い、二つ折りのポストカードを見つける。小さな蹄で拾い上げたそれは、裏も表も何の記述もない。

「ルフィ、これかな?」

「お! なんだそりゃ? 食えっかな!?」

「……」

山羊みたいに口を動かすルフィを想像したチョッパーは、その想像のあまりのリアルさに、脇から覗き込む船長に背を向けてそうっとカードを開いてみた。
雪球の投げ合いから結局いつもの喧嘩を繰り広げることになり、全身びしょ濡れにしていたゾロとサンジも、ウソップの掛け声を聞きつけて甲板に集まる。ナミは一足遅れてラウンジから顔を出したが、訳がわからないという顔でロビンと顔を見合わせた。
 開いたカードの中には、「ようこそ、サンタ・クロース島へ!」の文字。
サンタクロースという言葉に懐疑に満ちた視線を投げ合うゾロとサンジとは対照的に、ルフィとチョッパーの瞳が輝いた。

「サンタだって! ルフィ、サンタに会ったことあるか!?」

「見たことねェ! 腹いっぱい肉食わせてくれるおっさんだろ!? 会ってみてェなー!」

 それがクリスマスに望むことならばあながち間違った解釈でもないかもしれないと思いつつ、チョッパーは綿菓子みたいな髭で顔をおおったサンタの姿を頭に浮かべながら頷いた。
それから数分も経たない内に頭上でウソップが島を発見したと報告するものだから、冒険心の塊のような船長の瞳の輝きが増した。チョッパーは彼のわくわくが伝染したかのように、雪の冷たさからではなく頬を紅潮させている。
 それを眼下で見ながら、サンジは湿気た煙草を吐き出した。ポケットに手を突っ込んでも中まで濡れているので不快度マックスだ。

「…まさかお前ェまでサンタ信じてるとか言い出さねェよな?」

「サンタっつーと…アレだろ、風呂場の窓から不法侵入してくる不届き者」

「お前んとこの文化大丈夫か?」

 えらく真面目な顔をして少年少女の夢をぶち壊すことをさらりと言ってのけたゾロの腹巻きも濡れている。いつぞやのようにそれで暖を取るのも難しそうだと判断したサンジはとりあえず風呂に入ろうと思った。何しろ船長が乗り気だ。島の名がサンタなだけで実際に存在していると決まったわけでもないのに、大はしゃぎにも程がある。上陸の判断は航海士がどれだけ異義を主張したところで覆らないだろう。
島に美人がいたら口説かないわけにはいかないので、そうなればこの見てくれでは頂けない。
止む気配のない雪が積もった頭をふるりと振って、びしょ濡れの靴で回れ右をした。彼の背後、つまりはメリーの進む先の彼方に、隙間なく白で覆われた森林が広がっていた。










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