昌幸の腕に抱かれている赤ん坊は、まだ生まれたばかりの女の赤ん坊だった。母親の腕を離れた事が不安なのか、助け出す前よりも大きな声で泣きはじめた。

「よしよし、もう大丈夫だ」

昌幸が赤ん坊をあやそうとするが、赤ん坊はいまだ泣きつづけている。段々と昌幸の顔に困惑の色が浮かぶ。

「全く泣き止んでくれませんね…」

ある兵士が赤ん坊の顔を覗き込みながらぽつりと呟いた。

「…ああ。親じゃないって事、ちゃんとわかっているようだな」

たえず赤ん坊の身体を揺すってあやそうとする昌幸は眉を下げながら兵士の呟きに返した。赤ん坊は相変わらずぎゃあぎゃあと泣きわめいている。その声は他の声すらかき消すように大きく、まともに会話が出来ぬ状態になってしまった。

「困りましたな…」

誰もが頭を抱え始めたとき、信玄公は昌幸と赤ん坊に歩み寄った。

「どれ、貸してみろ昌幸」

「は、はい」

手を伸ばし、昌幸から泣きわめく赤ん坊を受け取り抱き抱える。信玄公が昌幸と同じようにあやす。すると不思議なことにあれだけ泣きわめいていた赤ん坊の声は段々と小さくなり、しばらくして泣き止んだ。

「…!」

「…一時の事かもしれぬ。もしや腹を空かせておるのかもしれん。…この近くにもうひとつ村があったな、そこにこの赤ん坊は預けるのが良いだろう」

そう言い、信玄公は兵の一人に赤ん坊を預けようとした。その時、

「お館様」

「なんじゃ、昌幸」

昌幸が信玄公を呼んだ。その声に信玄公は赤ん坊を抱いたまま昌幸の方を向いた。先程まで驚いていた顔から一変、昌幸は真剣な顔をしていた。


「お館様…、その赤ん坊私に引き取らせては頂けませぬか?」

昌幸の言葉に、そこにいた誰もが驚く。

「その子はまだ赤ん坊です。幼子よりも手がかかりましょう。よその村に預けるというのは、その預けた者達の生活を圧迫するやもしれません。」

「お主は一々孤児を引き取り育てるというのか?」

ため息交じりに信玄公が昌幸に問う。昌幸はその問い掛けに首を振った。

「確かに…全ての孤児を保護し育てるのは無理がございます。しかし、母も父も亡くしこの村でただひとり生き残ってしまったこの赤ん坊の事を私は放ってはおけぬのです…!」

強い意志を込めた声で、昌幸は信玄公に訴えた。瞳には声と同じ様に強い意志が宿っていた。

「私のところには、二人目の息子がおります。妹が出来たと知れば喜びます。妻もわかってくれまする」

「…仕方ないのう。命を預かったからには、全てに責任を持つのじゃぞ、よいな昌幸」

「…!お館様…!ありがとうございます!」


純粋で真っすぐな優しさを持つ昌幸に、とうとう信玄公が折れてしまった。嬉しそうな顔をした後に礼を示すために深々と頭を下げようとする昌幸を制して、赤ん坊をその腕に渡す。


その瞬間、まるでなにかの装置が作動したかの様にまた赤ん坊が大きな声でわんわんと泣き出した。

「…っ!ほら、良い子だから泣かないでくれ…!」

先程の嬉しそうな顔から今度は最初の困ったような顔へと戻る。昌幸の努力もむなしく、赤ん坊の泣き声は更に大きくなっていく。

「…昌幸よ、貸してみろ」

再び信玄公は昌幸から赤ん坊を取り上げ自分の腕へとおさめる。先程したように幾度か揺すってやると赤ん坊の泣き声はだんだんと小さくなっていった。

「…この子は、お館様の人柄をわかっているようですね」

昌幸の言葉に信玄公は赤ん坊の顔を見る。先程まで泣いていたのが嘘であるかのように、赤ん坊は嬉しそうに笑っていた。
その顔にふと、信玄公は自分の子達の幼い頃を思い出す。こうやって腕に抱いてやると、同じように笑っていた。赤ん坊は自分の父や母をちゃんとわかっているのだ。安心して、信頼して笑っているのだと。

「…昌幸。」

「はっ」

「…この子は儂が育てよう」

「!良いのですか?」

「お主のところにも生まれたばかりの子がおろう。儂のところはもう手のかかるような子はおらん。それに…」

「それに?」

「この赤ん坊は、自分で親を選んだようじゃ」

昌幸の腕の中では泣いていたというのに、信玄公の腕の中では嬉しそうに笑っている。それはまるで赤ん坊が自分で信玄公を選んだように見えた。

「昌幸」

「はっ…」

「名前を付けてやってくれぬか」

「名前ですか?」

「うむ」

信玄公に赤ん坊の名付けを頼まれた昌幸は、しばらく考え込んだあと、良い名が思い付いたのはぱっと明るい顔をした。

「…十六夜姫というのはいかがでしょう」

「十六夜か…良い名じゃな。…お主は今日から武田の姫、十六夜じゃ。武田の姫らしく、亡き父母やこの村の者達の分まで強く生きるのじゃ」

そう赤ん坊に言い聞かせると、赤ん坊は返事をするかのようにきゃっきゃと笑った。そんな元気な赤ん坊の姿に信玄公や昌幸、他の兵達は皆、優しく微笑んだ。


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