十数年前、東の国境には一つの村があった。その村には商人が多く住み、それなりに栄えていた。今でこそそれを知る者は殆どいないが、当時は甲斐の主な交易の拠点の一つであった。



そしてその村はある夜、地図の上から消えてしまった。


天下取りに名も上がらない程小さな敵国によって、その村は一夜で壊滅してしまったのだ。その日信玄公は、川中島で謙信公と戦っていた。謙信公と刃を交える信玄公の元に、とある小国が東の国境を越え甲斐へと攻め込んできたという知らせが入った。これを聞いた信玄公は直ちに川中島を後にし、東の国境へと馬を走らせた。

程なくしてその敵と遭遇し、戦闘になった。しかし圧倒的な信玄公の力を目の当たりにした兵達は、勝ち目がないと見込んだのか来た道を引き返し始めた。信玄公ははっとした。彼等が進んでいる道の先には、確か村がある。同じ道を通り帰るつもりなら、村に何らかの被害が出ているに違いない。信玄公は、逃げる兵を追うように馬を走らせた。


追いかけるが既に敵の姿はなく、甲斐から脱したようだった。しかし今、それはさほど重要な事ではなかった。信玄公は更に速度を上げ、村まで走る。

しばらくして道が開け、いくつかの建物が見えた。目的地に到着したらしい信玄公は馬を止めた。

「…なんと…」


信玄公の目に飛び込んで来たのは、異様な光景だった。

村の家々は破壊され、火をつけられ、ごうごうと音を立て燃えている。炎のせいで壁橙は色に染まっている。玄関口では人が俯せに倒れていた。その背には真新しい刀傷があり、着物は赤に染まっていた。たまらず側に駆け寄り呼んで見ても返事はなく、既に死んでいるようだった。

「お館様!」

「…昌幸か」

信玄公の後を追いかけやって来たのは信玄公の家臣、真田昌幸と十数の兵士だった。

「お館様…これは…!」

「うむ、先程の奴らじゃろう」

目の前の光景に昌幸は目を細めた。しかしすぐに険しい表情をして信玄公の方に向き直った。

「生きている者がいないか確認してまいります!」

「うむ、頼んだぞ昌幸」

「はっ!」

頭を下げた昌幸は連れてきた兵士達と共に村の中へ入っていった。少し遅れて、信玄公も村の中へと歩き始めた。


何処も同じように壊され、誰もが同じように殺されていた。炎を見つめ、信玄公は片手で斧を振り回した。生じた風で、火が消えた。その向こうには小さな子供が倒れていた。

「ここまで被害が大きいとは…」

子供の亡きがらに近付き、そっと髪に触れた。その時、

「お館様!」

自分を呼ぶ兵士の声に気付き振り向く。

「向こうの瓦礫の下に赤ん坊がおります!」

「赤ん坊だと?」

「はい!瓦礫の下から泣き声が!今昌幸殿達が助けようと瓦礫を退かしております!」

「そこへ案内してくれ」

「はっ!こちらにございます!」

信玄公は昌幸達の元へと走る兵の後ろを追いかけた。その場所に近付いていくと、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

「お館様!こちらです!」

瓦礫を退かしている兵が信玄公を呼んだ。すぐ側には懸命に瓦礫を退けている昌幸もいた。

「昌幸、退け。儂がやろう」

「お館様!」

信玄公は昌幸が退かそうとしていた瓦礫に手を添えた。

「赤ん坊はこの下じゃな?」

「はい!」

手に力を込めてゆっくりと瓦礫を持ち上げた。退けたところには大き穴が空いていた。先ほどよりも泣き声がより鮮明に聞こえてきた。昌幸が穴の中を覗くと、そこには夫婦と思われる男女と、赤ん坊がいた。

「いました!赤ん坊です!」

女は赤ん坊を守るように抱きしめていて、男はそれを守るように覆いかぶさっている。二人は既に息絶えているようだった。

昌幸は女の腕から赤ん坊を取り瓦礫の山を離れた。それを確認した信玄公は、瓦礫を地面に下ろした。


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