椛も佐助も右目様もみんな、幸村と独眼竜を追いかけて本能寺へと向かった。屋敷に残されたのは屋敷を守る僅か数十の兵と女中達、それから私と父上だけ。
父上がいつ目覚められても良いように、側で待つ。父上の瞼はまだ持ち上がる気配がない。規則正しく胸が上下して、呼吸をしているのがわかった。はやく目覚めて欲しい、またあの大きなあたたかい手で頭を撫でて欲しい。わしゃわしゃと、髪がぐしゃぐしゃになったっていい。あの豪快な笑い声がはやく聞きたい。
でも、少しだけ不安になる。父上が起きて、最初になんと言えばいいのかしら。それ以前に私は、父上とちゃんと会話出来るのかしら。とりあえず、まずはごめんなさいと言お「…っ…」「!」
父上への謝罪の言葉を一生懸命考えていると、微かに父上のくぐもった声が聞こえた。慌てて父上の方へと身を乗り出して父上を見ると、瞼が微かに震えていた。それからしばらくして、父上がゆっくりと目を開いた。
「…っ」
「…十六夜…」
父上の目が動いて私を見た。私の名を呟いた父上は少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「父上…っ」
「…まだ儂を、父と呼んでくれるのか」
父上のその言葉に喉から出かかっていた言葉が再び奥へと飲み込まれた。そしてゆっくりと、元のように座り直した。悲しくなって俯くと、父上の声が聞こえた。
「…そのような悲しい顔を、するな」
その言葉に顔を上げると困ったように笑う父上がいた。その顔に必死で飲み込んだ言葉を吐き出そうと努力する。
「父上…ごめんなさ…い…」
そう言ってまた俯いた。自分の膝に乗せていた両手に、ぐっと力が篭る。やっとの思いで絞り出した言葉は、自分でも聞き取りづらい小さな声だった。
「お主は何も悪くない、顔を上げてくれ十六夜よ」
それでも父上には聞こえていたようで、相変わらず優しい声色でそう言った。
「お主がもう少し大人になって…何処かへ嫁ぐ時に言うつもりだったのだ。」
「…」
「まだ今は、知らぬままの方が良いと思っておった。全てを知って此処にいるのはあまりに酷だと思うてな。だが、それは間違っていたようだ。…十六夜、お主につらい思いをさせてしまった」
悲しかった。武田の姫でなかったことよりも、父上の娘でなかったことが。それよりもっと悲しかったのは、その事実を隠されていたこと。だけどそれは父上が私の為にとしてくださったことだった。お優しい父上だもの、そんなこと、考えたらすぐにわかることなのに。
「…っ、父上…」
ぽたぽたと、手の甲に涙が落ちる。
「十六夜、不甲斐ない儂を許してくれ」
起き上がれるだけの力がまだ戻っていないのか父上は、ゆっくりと私に手を伸ばした。宙をさ迷うその手を、私は両手でしっかりと掴む。
「謝るのは、こちらの方です…父上…駄目な娘でごめんなさい…っ」
父上の大きな手を、自分の頬に当てる。いつも私を守り、愛してくださったあたたかい手。記憶の中のそれと何一つ違っていない、同じあたたかさ。そのぬくもりに視界が滲む。それでも私の両目は、優しく微笑む父上をしっかり捉えていた。
「父上、」
「なんじゃ」
「また…、父上とお呼びしてもよろしいですか?」
「可笑しな奴じゃのう、既に呼んでおるだろう。」
そう言って父上はいつものように笑った。少し控え目ではあったけれど、私を安心させるには充分すぎる笑い声だった。
「…そうですね、父上」
その笑い声に答えるように、私も精一杯の笑顔で答えたけれど、視界は相変わらず涙で滲んだままだった。