あれから更に数日、伊達殿はほぼ毎日姫様のお部屋に足を運んでいる。実際に見てはいない、女中達が噂してるのを聞いただけだ。
それが気にならない、と言えば嘘になる。しかし自らそれを確かめに行く勇気はない。姫様に対する己の感情に気付いてしまってから、どうしていいのかわからなくなってしまった。廊下を歩いて遠くに姫様の姿が見えると気付かれないよう立ち去るようになってしまった。
お館様との手合わせの時でさえ、あの日の姫様と伊達殿を思い出してしまい、動きが鈍る。その度お館様に気合いが足りぬといつもよりも強い力で殴られた。
何も考えなくていいように、身体を動かし続けても頭は姫様を想うことをやめない。むしろなにかに没頭しようとすればするほど姫様の事しか考えられなくなる。
「…ふ、」
振るっていた槍を地面に突き刺し、側にあった石に座り一息つく。耳をすますと、女中達の声や他の軍の者達の声が聞こえる。日頃よく聞く音だ。しかし、ひとつだけ欠けている声がある。
姫様、と小さく呟いてから思い出し、懐に隠していた簪を取り出す。姫様が攫われたあの日から、返す機会を逃し続けずっと持っていた。これを姫様に贈ったのは数年前だというのに、簪は手入れが行き届いていて、輝きを失っていない。色々な者達からたくさんの簪や櫛を贈られているはずだが、姫様はこれをとても大事にして下さっていた。それがとても嬉しかった。
「…真田殿、」
「!?」
後ろから声をかけられ、肩と心臓が跳ねる。振り返るとそこには不思議そうな顔をした椛殿がいた。
「椛殿…!?」
「そのように慌ててどうしたのですか真田殿?…あら?」
椛殿の目線がどこかに移る。その目線を辿って行くと、某の手に握られた簪があった。
「それは姫様の…」
「あ、あの、その、こ、これは…!」
必死に言い訳をしようとする某を見て椛殿はくすり、と笑った。
「あの時返し損ねたものでしょう?」
「は、はい…」
「返しには行かないのですか?」
「行く勇気がないのでござる…」
壊れない程度の力で簪を握りしめる。勇気がないとは我ながら情けない。きっと椛殿も呆れているのだろう。
「…姫様は簪をお探しのようですよ?」
「誠でござるか?」
「はい、…伊達殿から聞きました。」
「伊達殿から…」
椛殿は伊達殿の姉上で、武田に滞在する伊達軍の世話を任されている。そんな椛殿が伊達殿から姫様が簪を探している事を聞いた、ということは伊達殿が姫様にお会いになっているのは真実だったのか。姫様が簪を探していることよりも、伊達殿が姫様とお会いになっている、そちらの方が強く耳に残っていた。それはどうしようもなく耳障りなものに感じた。
「…真田殿、どうなさいました?」
「…いえ、何も」
「伊達殿がいかがしました?」
「っ…」
伊達殿、という言葉に某が反応した事に気付いた椛殿は、いつものように優しく微笑みながら聞いた。どうやら椛殿は分かっているようだ。それ程にまで某はわかりやすいのか。
「伊達殿が姫様に会いに行っているという噂は、誠だったのかと思いまして…」
「…今の姫様にとっては、武田の者では無い方といるほうが楽なのかも知れませぬ。」
「わかっているつもりでござる。しかし…あの日姫様が伊達殿に笑いかけているところを見てから…可笑しいのでござります。」
姫様がお館様と血が繋がっていないと気付いてしまわれた日から、消えてしまった姫様の笑顔がようやく戻ったというのに喜べぬのだ。確かに喜ばしい事のはず。しかしそれが伊達殿に向けられたものだという事が、どうしようもなく悲しいのでござる。姫様に、かような感情を抱いてはならぬと、わかっているつもりでござる。しかし、何度消そうとしても隠そうとしても姫様を想う心が消えぬのだ。
「真田殿…」
「…あ」
心の中で吐き出した言葉は全て、口から出ていたらしい。椛殿の驚いたような顔を見て、佐助に聞かれてしまった時のように恥ずかしくなる。
「真田殿は十六夜様の事がお好きなのですか?」
椛殿にそう聞かれ、心臓が止まりそうになる。姫様の事が好きか、それはつまり某が姫様を女子として好いているかということ。言葉が出て来ず、やっとの思いで頷いた。そんな某を見て椛殿は微笑んだ。
「どっどうかこの件は姫様とお館様にはご内密に…!」なんとか言葉を喉の奥から絞り出す。お館様の大切な姫様に恋慕など、あってはならぬこと。お館様に知られてはまずいことになる。
「そ、それから椛殿、この簪を伊達殿にお渡し下され!」
続けて言って、手の中の簪を椛殿の手を取りそこに握らせた。(お、女子の手を取るなど、破廉恥な…、しかし致し方ない…!)某から受け取るよりも、伊達殿から受け取った方が、今の姫様にとってはいいはずだ。
「…お断り致しまする、真田殿」
「へ、」
握らせたはずの簪は、どういうわけか某の掌へ返ってきた。
「椛殿…なぜ、」
「伊達殿よりも…真田殿が渡された方が十六夜様はお喜びになられまする。武田が元のように戻った時に渡せばよいのです。」
「…しかし、」
「とにかく、ご自分で。」
「…」
椛殿の強い声に、出していた手を引っ込める。すると椛殿は微笑んだ。
「きっと、大丈夫ですわ。姫様は笑顔をお見せになったのでしょう?いずれ真田殿にも笑顔を見せて下さいますわ。それを信じて待ちましょう?」
椛殿の言葉に、黙って頷く。その言葉を信じたい。それを待っていられるほど某は我慢強くはないが、それでも待たねばならぬ。己に言い聞かせるようにもう一度簪を握った。