あの日の姫様の泣き顔が、泣き声が、頭から離れぬ。紛らわそうと槍を振るっても、考えるのは常に姫様のこと。
あの日以来、姫様から笑顔が消えた。自室で過ごされることが多くなった。たまに廊下で会えば挨拶する間もなく去っていってしまう。屋敷の中は明かりが消えたように暗くなった。女中達はなんとか笑顔を絶やさぬようにしていたが、やはりそれは何処か無理をしているように見えた。武田にとって姫様の存在がこれ程までに大きいとは。
「はあっ!」
「頑張ってるねぇ、旦那」
考え事をしながら槍を振るっていると、後ろから声をかけられた。その声に槍を振るう手を止め、振り向いた。
「…佐助」
「頑張りすぎないでよね、旦那。倒れたら俺様も姫様も泣いちゃうよ?」
「…姫様、か」
姫様は、本当に泣くだろうか。某のことなど心配してくれるのだろうか、あのような事をした某を。
「佐助、」
「ん?」
「姫様は…武田はどうなるのであろうな」
「…このまま、なんてことはないでしょーよ」
いつもの様な口調ではなく、冷静な口調で佐助が言う。
「姫様が行動しない限り…このままだろうけどね」
「…そうか、」
「姫様のこと気になるの?」
佐助の問いに黙って頷く。
「だったら、直接会いに行けば?」
「行けるわけないだろう!廊下でお会いしてもろくに挨拶もせず行ってしまわれるというのに。それに…」
「それに?」
「…約束を守れぬ某に、姫様に会う資格などない」
幼い頃から、姫様と多くの約束を交わしてきた。小さなことから大きなことまで。約束すると、ゆびきりをすると、姫様はいつも嬉しそうに笑って下さった。それが嬉しかった。
だが、某は破ってしまった。一番大切な約束を。
「姫様に誓ったはずであったのに…某は守れなかった。」
「旦那…」
俯くと、無意識に槍を持つ手に力が篭る。滲む視界から、必死で抜け出そうと。これ以上涙を流さぬようにと。
「そ、某は…護ると誓った…!絶対に、あのような思いなどさせぬと…姫様は、某が護ると…!」
交わした約束を守ることが出来なかった某の事を、姫様が嫌っても仕方ない。絶対に守らねばならぬ約束を、某は破ってしまったのだ。これまでに幾つか約束を破ってしまったことがある。しかしこの約束は、他の約束とは違う、違うのだ。
「…旦那、勘違いしてるよ」
ため息混じりの佐助の言葉に顔を上げる。
「どういう事だ…佐助、」
何を勘違いしていると言うのだ、佐助の顔を見ると呆れたような顔をしていた。
「旦那ってさ、いつも一番大切な事が見えてないよね」
「…?」
佐助の言葉の意味がわからない。
「一番守って欲しかった約束。旦那が思ってる約束と、姫様が思ってる約束は違うんだよ」
「違う…?」
「姫様が旦那に守って欲しかったのはさ、ずっと側にいて欲しいってことなんだよ」