姫様の言葉で時が止まったような錯覚に陥った。
どのくらい時間が経っただろうか。お館様が静かに口を開いた。
「…誰からそのような話を。」
「松永久秀に…」
「…」
「私は甲斐の虎の血を引いてはいない、と」
「な、何を申される姫様!姫様は由緒正しき甲斐武田の姫ぎ…」
「…よい、幸村」
無意識に立ち上がり必死に訴えていた某の耳に凛としたお館様の声が届く。その声に落ち着きを取り戻し座り直す。
「お主には、いつか言わねばと思うておった。よく聞け、十六夜」
お館様が真っ直ぐに姫様の目を見る。
「お主は儂の娘ではない」
「…!」
姫様の瞳が大きく揺れる。しかしお館様は続ける。
「お主は、十数年前に起きた戦で親を失っ…」
「何故、何故今まで…!」
姫様は立ち上がり、お館様の言葉を遮る。
「何故それを教えてくださらなかったのですか…?」
姫様の泣きそうな声色が部屋中に響いているが、某もお館様も押し黙る。
「…っ、もういいです!」
強い声の後、姫様は部屋を出て行ってしまわれた。
「姫様!」
「追いかけるな、幸村」
姫様を追いかけるため立ち上がろうとするとお館様に止められた。
お館様が追いかけるなと申されているのだ、それが正しいに違いない。だが、
「っ、申し訳ありませぬお館様!」
どうしても、某は姫様を追いかけずにはいられなかった。お館様に謝り、駄目だと思いながらも部屋を飛び出し廊下を駆けた。
しばらくして同じように廊下を走る姫様の背を見つけ、速度を上げる。
「姫様!」
後ろから姫様の腕を掴むと、姫様の歩みが止まる。振りほどこうと姫様が腕を振る。逃がさぬようにぎゅうと手に力を込める。
「離して、」
「姫様、聞いてくだされ!」
「離しなさい、」
「お館様が姫様に秘密にしていたのは姫様の為を思って…」
「あなたも知ってたの?」
急に、姫様がこちらを振り向いた。瞳には今にも溢れそうなほどの涙が溜まっている。
「ひ…」
姫様は涙で濡れた瞳できっ、と某を睨みつけた。
「…私の事、知ってて知らないふりをしてたんでしょ?」
「…それは、」
姫様がお館様の本当の娘でないことは知っていた。元服した際、お館様に教えられた。武田に仕えし者なら殆どの者が知っている。兵士も女中も。つまり、武田の皆が姫様を騙していた事になる。
某はなんとか首を横に振る。
「…嘘つき」
「…え」
「本当の事を言って」
姫様に真っ直ぐ見つめられ、駄目だと思いながらも某はゆっくりと頷いた。
「…どうして、嘘ついたの?」
「…」
「嘘、つかないんじゃなかったの?」
「…」
「っ、幸村はいつもそう。嘘ばっかり。約束だってすぐ破る、一番守って欲しかった約束だって幸村は守ってくれない…!」
姫様はぽろぽろと涙を零しながら訴える。
「姫っ、」
「どうして、どうして今まで騙してたのっ…!」
「姫様、それは皆姫様の為を思って…」
「だいっきらい…幸村なんかだいっきらい!父上も、みんなも、」
「っ、」
姫様が叫んだ刹那、乾いた音が響いた。
「いい加減にしろ!」
幼子のように泣き叫ぶ姫様に苛立ち、己の手が姫様の頬を思いっ切りひっぱたいていたのだ。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
「も、申し訳…」
姫様は叩かれた頬を押さえ涙目でこちらを睨む。
「馬鹿…っ!」
吐き捨てるように叫んだ姫様は某の手を振りほどきそのまま背を向け去っていってしまった。
床に張り付いたかのように、某の足は動かなかった。
「…っ、」
なんて事をしたのだ、某は。女子、あろうことか姫様に手を上げるなど。許される事ではない。姫様に嫌われてもおかしくない。
やはりお館様の言うとおり追いかけるべきではなかった。後悔と共に某はいつまでもそこに立ち尽くしていた。