「椛殿!姫様が何者かに…!」
「安心なさいませ、姫様はこちらにおられまする。」
父上達より一足先に屋敷に戻ると、私がいなくなってしまった事に屋敷中が慌てていた。何者かにまたさらわれたのだと思われていた。
「みんな、ごめんなさい…」
「姫様!ご無事でようございました…!」
女中達が焦った顔から笑顔になっていった。誰も、私を責める者はいなかった。
「…長篠の方で戦がありました。怪我を負った兵の手当てを武田ですることになったので、準備をお願いいたします。」
「はい!」
椛の言葉に女中達が動き出した。椛も馬を引いて、何処かへ行ってしまった。
「十六夜様もこちらへ」
残っていた女中に呼ばれて、私は歩き出した。
「まぁ…姫様!甲冑に血が…!」
「もしや何処かお怪我を…!」
私の身に着けていた甲冑に付いていた血に気付いた女中が心配そうに声を掛ける。勿論この血は私の血じゃない。椛に斬られた徳川の兵の血だ。
「…怪我はしてないわ、心配かけてごめんなさい」無理矢理笑顔を作って女中に言う。
「…怪我をなされていないのならよいのですが…、姫様。湯浴みなさりますか?」
「ええ…そうするわ」
女中に勧められた通りに湯殿へと行く。体についた血や鉄のにおいを湯で流す。体から血のにおいは消えたけど、戦場の光景は頭の中から消えてはくれなかった。
湯浴みを終え、用意されていた新しい着物を着て自室へと戻る。屋敷の中は騒がしくなっていた。きっと父上達が戻られたんだわ。
自室の灯りをつけて、鏡台の前に座った。鏡に映る顔は今にも泣き出しそうな顔だった。
考えるのは色々な事。勝手に屋敷を抜け出して、きっと父上は怒ってる。本当にもう私はこの屋敷から出られないかもしれない。戦場でたくさんの命が散っていったこと、私はあの場で何も出来なかったこと。情けない自分の姿。
「十六夜様、失礼いたします」
「っ椛…!」
考え事をしていると障子越しに椛が私を呼んだ。障子が引かれて椛が姿をあらわす。
「…お気分は如何ですか」
「…」
「十六夜様、」
心配そうな声色で聞いた椛を見つめる。声色と同じように椛の顔も心配の色が浮かんでいた。
「…他の方々の様子は?」
大丈夫、なんて言えなくて、言えたとしても余計な心配をかけるだけだ、そう思った私は椛の問い掛けを無視した。その事に何も言わず、椛は私の質問に答えた。
「屋敷の者は全て怪我人の手当てをしております。武田も上杉も徳川も浅井も…伊達も」
「伊達?」
「…近くで戦をしていて、独眼竜が種子島にお倒れになったそうです。一命は取留めたようですが…」
「そう、…椛」
「なんでございましょう」
「しばらく貴女は…伊達の方のお世話をして。私のことは違う者に任せて。」
椛の目がまあるくなる。
「十六夜様…?」
「貴女、伊達の方々と知り合いなんでしょう?」
時々、独眼竜の話をすると椛の瞳は悲しく揺れていた。
「知っておられたのですね、姫」
「なんとなく、ね」
私が椛の言葉に頷くと、椛は悲しそうに笑った。
「さぁ、忙しいんでしょう?はやく行ってあげて。私なら大丈夫だから。」
私がそう言うと椛は「ありがとうございます」と頭を下げ、私の部屋から出ていった。
…別に椛に気を使った訳じゃない。ただ、これ以上弱い自分を見せたくなかっただけ。再び鏡台と向かいあう。相変わらず酷く泣きそうな顔をしていた。
「…そうだ、」
私は、鏡台の引き出しからひとつ、簪を取り出した。
桜の花の飾りが付いた、私の宝物。私は不安なことや嫌なことがあると、この簪を付ける、何故だか安心出来るから。
いつものように髪を結って簪をさした。鏡を見つめると、桜の花の簪は灯りに照らされてきらきらと光っていた。
「…駄目だわ」
いつもなら、安心できるのに。今日は不安になるばかり、どうして?
考えてもわからなくて、私は部屋の灯を消して部屋の隅に座り、膝を抱えて頭を埋めた。
お願い、はやく頭の中から消えて、こんなこと。そう願いながら私は瞼を下ろした。