あれからあたしは、いつも通り当番をこなして。
三年の先輩は相変わらず来なかったから、これもいつも通りあたしが代わりに図書室へ行った。

本当なら、面倒だった当番も今のあたしは放課後の時間を削ってでも図書室へ行く。
たまに先生がちょろっと顔を出して、あの時のようにお茶を出してくれて。

先生と話が出来るそのわずかな時間が嬉しかった。
図書室に訪れる理由は最早そのためだけだった。

当番がどうとか、本が好きだからとか。そんな理由はもうどこにもなくて。
だけど、だからと言って毎回先生のいる司書室に足を運ぶのも気が引ける。一応、鬱陶しいと思われたくないという乙女な思考があるようだ。


(でも…今日はいいかな)


手元にある小さなカレンダーに視線を送り、日付を遡ってみる。
最後に司書室へ行ったのは…確か先々週だった。

その間は廊下ですれ違いざまの挨拶をする程度。そろそろ先生と話したくなってきた。


少しだけ鼓動が早くなる中、本を借りに来る生徒がいないか確認してから司書室へと足を運ぶ。
そっとドアを開けてみると、あの独特な匂いがした。「失礼しまー…」


言いかけて、慌てて声を消したのは全開の窓の下、ソファーで堂々と横たわった先生がすやすやと眠っていたから。


(…寝てる)


話し相手がいないと分かればすぐに当番に戻ればいいのだけど、あたしはふいに先生が寝ているソファーに近付いた。

だって、先生が寝てる姿なんてマスクをしていないことよりも貴重すぎる。

ちょっとだけ、と自分に言い聞かせながらソファーに近付き、そっと向かいに座ってみた。

全開の窓からは、多少寒いものの新鮮な外の空気が入ってくる。ぽかぽかの日差しは少しの寒さを和らげて、睡魔が襲ってくる気持ちが分かるような気がした。

ふいに訪れた眠気をぐっと耐えて、また一歩。先生に近付いた。
銀色の髪がふわりと靡いて、先生のおでこを少しだけ見せた。


(かわいい…かも)


静かに、息をするのも慎重に近付いて、あたしはとうとう先生の頭がすぐ見える床にぺたんと座った。

床はぽかぽかの陽気は当たらなくてひんやりと冷たい。
だけど目の前の寝顔はあたしの胸の奥をジリジリと温かくする。

こんなに長い間、先生の顔を見たのは初めてかもしれない。

そう思うほどじっくりと見入ってしまった。


(肌が白くて綺麗だなぁ、睫長いんだぁ…あ、ヒゲがちょっとだけ生えてる。さわって、みたいなぁ…)


伸ばしかけた手に気付いて、すぐに引っ込めた。
ダメダメ、触ったりなんかしたらすぐ起きてしまうかもしれないし。それに、なんだかいけない事をしているみたい。


(…いけない事…)


その言葉が頭に浮かんだ瞬間に、あたしは無意識に顔を近付けていた。
ダメだ、と思っているのは頭の片隅だけ。

本当はすぐにでも触れたいと思った。
手なんかじゃなくて、唇で。
ぼんやりと、ちょっとの間先生の寝顔を眺めていたら。

先生と、キスがしたいと思ってしまった。


近付けばすぐにそばにある先生の唇。
その唇に触れるのは、もう二度とないかもしれないと思うと、余計に触れたくなる。

無意識に出された欲望は勝手に体までを動かしていく。


「!」

でも唇が交わるだろう本当に一歩手前で、あたしの体は固まった。
ふさりと音の出るようにゆっくりとその長い睫と一緒に瞼が開かれて、普段と同じ眼差しだけど普段の何倍も何倍も鋭く思えるのは何故だろう。


「ご!ごめんなさ…」


うまい言い訳が見つからずあたふたしまま体を離そうとすれば、その瞬間がっちりと腕を掴まれた。


「…キス、したいの?したいならしてもいいよ」


瞼を開きそれが一発目の言葉だった。瞳は鋭いままあたしの瞳を捉えている。
あたしはその瞳に吸い込まれるようだった。軽く金縛りにかけられたように固まっていると、鋭く見えた瞳は、いきなり弓なりに曲がっていつもの笑顔がそこにあった。


「なーんて。冗談。お前もこんな事してからかわないでよ」


はは、と少し笑って。ふわっとあくびまでした。
今日もなんか飲んでく?なんて気の抜けた声も聞こえる。


きっと先生は気付いてる。それで敢えてこんな風にいつもの態度で交わしてくれたんだ。
あたしも素直に謝って、もうちょっとだったのにー!とかふざけて言ってみたりして、そしてこのまま、またいつものように他愛のない話をして。

…そうすればいい。
そうすれば、いつも通り先生は微笑んでくれて構ってくれるのに。

それなのに。



あたしはぐいっと先生のネクタイを掴んで引き寄せられた先生の唇に、自分の唇を押し付けた。

それは強引に、不意打ちな。ただそれだけのキスだった。



「…からかってなんかいないよ、先生」


その日、最後に見た先生の顔。
少しだけ見開いた瞳がすぐに伏せられ、眉間にしわが寄っていく。

あたしは次に出る先生からの言葉を待てずにその表情を残したまま司書室から出て行った。



…呆れたかな、嫌われたかな。
生徒が先生にあんなことをするなんて。

この恋が、叶うなんてことは一ミリも思っていなかった。
だからこそ、たまに先生に会いに行って、たまに話が出来ればいいと思っていたのに。


『―――からかわないでよ。』


そう言われた瞬間に、あたしの体は身勝手に動いた。

(好きなのは嘘じゃないんだよ、からかってなんかいないんだよ)


この恋を無かったことにはしたくないと思ったから。



誰もいない廊下を、一目散に走り抜ける。
まだ残る唇の感触にジクジクと胸の奥を痛めながら。
(キスがこんなに切ないだなんて、知らなかった)



end.


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