例えばあたしは、おかしいとか変だな…、とか思っても自分の気持ちが分からないということはない。今までそれなりに恋もしてきたし(全部片思いですが)、二、三日くらいすればすぐに自分の気持ちの全貌が明らかになった。
あのとき図書室で聞いた先生の二つの声。
怒られて気になるだなんて、とんだマゾっ気が自分の中にあったんだとか呑気に考えながら。
だけど、たまに廊下ですれ違う瞬間に、ドキドキしていることに気付いて。何の用もないのに図書室へ行ってみたり、知らずのうちに気だるそうな猫背を探してみたり。
(これ、完璧に恋だ…)
第三者のように妙に冷めた様子で思いながら、今日も図書室の当番の仕事を全うする。
恋だ、と認めた瞬間から、この当番をしている間先生がいる隣りの司書室が気になって仕方がない。
どうせ今日も図書室に来る生徒なんていないだろう、そう思いながらあたしはゆっくり司書室の方に向かった。
「先生ー…」
ガラリと扉を開ければ窓際に座った先生がいつもの文庫本を読んでいる。
初めて入った司書室は、図書室とはまた違う紙の匂いがした。それだけじゃなくて、誰か違う先生が吸ったのだろう煙草の匂いやコーヒーの匂いまでした。
「なに?また怪我した?」
「…違います」
あの時のことを覚えていたんだと、ちょっとだけ嬉しくなったと同時に。まだ日数があまり経ってないからでしょ、なんて自分に言い聞かせる。
「あの、暇なんです」
「なに?当番が?」
「はい」
「で?俺にどうしろと?」
「え、え〜っと…」
返答に迷い少し考え込んだ。図書委員特有の仕事があったわけでもないし、はたまた構ってください!なんていう仲でもない。
…ごまかして所定位置である図書室に戻ろう。
そう思ったとき、窓辺の先生からパタリと本を閉じる音がしてそこに視線を送ってみると、あの時頭にポンと手を乗せられた時のように優しく微笑んだ先生が見えた。
「ま、いつも当番頑張ってもらってるからね。コーヒーでも飲む?」
微笑みながら言われた言葉にあたしは素直に喜んだ。心の中ではやったー!と両手を上げていたけどまさか本人の前でなんて出来ず、だけど本当に嬉しかったからにっこりと笑う。
窓辺のソファー。
そこで先生は本を読んでいて、小さな机を間にしたその向かい側、そこに座ってもいいのかななんて思いながらも遠慮がちにそっと座る。
遠くの方からは問い掛ける先生の声が聞こえた。
「コーヒーは甘くする?」
「あ、はい!甘いのでっ、」
慌てて言いながら、立ち上がりまた座る。落ち着きのない自分を深呼吸して落ち着かせていればたちまちコーヒーの香りがふわりと漂った。
「はいどーぞ」
「わっ!ありがとうございます!」
「コーヒーで良かったの?牛乳もあったよ」
「そんなに子供じゃありません」
「はは、砂糖とミルクの量は大丈夫?」
「あ、おいしー!」
「そ?なら良かった」
「わーおいしー!先生今までで一番おいしいですこれ!」
「いや、大袈裟デショ」
「ううん!この砂糖とミルクの絶妙な分量が…」
「ハイハイ分かった分かった、お前面白いね〜」
さっきまでちょっとだけ緊張していたけど、先生の入れてくれたコーヒーで緊張が緩和できたのか、普通な和やかな会話が出来ている。
よしよし、この調子!
とあたしは満足しながら、また新しい話題を探した。
「先生、いつも何読んでるんですかー?」
「お前にはまだ早い本だよ」
「え?!いかがわしい本とか?」
「んーまぁそんなとこ」
「えーっ!」
他愛のない話をしながら、先生の目元が笑っていてそれがすごく嬉しかった。
先生が担任なら、受け持ち教科があったなら、今以上に会えるのに。
そんなことすら思ってしまったけど、こんな風にたまに会えるのも悪くない。
そう思わずにはいられなかったのは、
「そういえば!」
「なに?」
「マスク取ってるとこ初めて見ました」
先生が何気なくいつもまとっていたマスクを外しコーヒーを飲んでいるところを目撃してしまったから。
あたしがこう言うと先生は、小さく「あ」と反応している。
「どうしていつもマスクしてるんですか?すごくカッコイイのに」
…あ。
言ってしまってから、後悔が続く。
ふいに出てしまった言葉にカッと赤くなってしまいそうでそれも変に思われると思い、慌ててコーヒーカップに口を付けた。
だけど先生は全く気にしていないように、そりゃありがとうなんて言いながら笑っている。
言われ慣れてるのかなぁ、と思い少しだけガッカリした。
「これね。初めは風邪予防につけてたんだけど、今じゃ着けないと落ち着かなくなっちゃってさ」
「はぁ、そんなもんなんですか」
「ま、学校ではあんまり外さないから今日は珍しいよ」
つまりはそんな珍しい場面の先生に遭遇してしまったということで。
あたしの心の中はガッツポーズをしたいほど満たされていた。
「じゃあここでコーヒーいただいたことは内緒にしておきます」
「ん?どうして?」
「先生の素顔見れる特権ですから」
少し大胆なことを言ってみた。顔が赤くなっていないか心配になったのに、当の本人は、そんなもん特権になるの?なんて言いながらくすりと笑っていた。
…鈍感なのかな…。
そんな一抹の不安に駆られていたとき。
「じゃ、内緒ネ」
ふわりと降ってきた先生の手のひら。怪我をしたときにも頭を撫でられたけど、その時よりもずっと鼓動が鳴ったのは好きだと確信したからなのか。
撫でられたのは一瞬だったけど、どれもがスローモーションのように感じた。
離された先生の熱がたちまち冷めていく。その寂しさを感じながら、お口チャックですね!なんておどけてみせた。
本当はドキドキと胸のあたりからは鳴り響いていたけど、気付かれないように笑った。
それからすぐに当番の時間を終えるチャイムが鳴りあたしはごちそうさまでした!と立ち上がる。
「先生、また来るね!ヒマだから」
「んー、ヒマな時だったらいいよ。おいで」
その言葉が例え社交辞令のものでもすごく嬉しかった。
だけどあたしがそこから出て行こうとしても、まだいなよ、なんて言われない。
あたしは後ろ髪を引かれる思いで司書室をあとにする。
「先生さよーなら、ごちそうさま」
「ん、お粗末さま。気をつけてな」
ドアを閉める間際に先生の顔を見詰める自分の行為がぬかりないと思った。
図書室を出てパタンと扉を閉じれば静かな廊下にその音が響く。
あのとき撫でられた頭の、先生の温度はもうすっかり消えてしまった。
その代わりに、鼓動の音だけは消えなくて。それと同時に胸のあたりにチクリと小さな痛みだけを残す。"切ない"。
そんな言葉を思い浮かべた。
(もう顔を見たくなってしまった)
end.
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