その雰囲気は、ピリピリしてるわけでもなく、かと言って穏やかな感じでもなく。
あんなに先生に会いづらいと思っていたあたしなのに、今は先生のあの悲しげな表情が気になって仕方がなかった。
先生に促されて司書室に入ってみれば、いつもは開いているカーテンは閉じられていて、その奥の開いた窓から入る風でカーテンがひらりと揺れた。
机には紙切れと鉛筆が転がっていて。すかさず先生がそれを手にとってあたしに渡す。
「これなんだけどね…今月の図書室の使用者を学年ごとに書き出して欲しいんだ」
そう言いながら使用者リストなるファイルを戸棚から出してきた。
「何年の生徒がどのくらい来てるのかと思ってね」
「あ…はい。分かりました」
渡されたあたしは事務的に返事をし、ファイルと用紙を持って図書室へと移動しようとした。
(やっぱり…アスマ先生の言ったとおり、委員会の仕事か)
ぽつりそう思ったとき、後ろから聞こえた先生の声。
「ここでやってもいいよ」
驚いて振り向けば、先生はいつもの優しい微笑みで。その表情に戸惑ったあたしは、途端に目を逸らし俯いた。
「ここで…ですか?」
正直、先生と長く二人きりになるのは耐えられる自信がない。また、何か言われないだろうか…とか思ってしまって。
…だけど先生のあの優しい微笑みを見ると。
ここにいたくなってしまう。
「俺も手伝うから、ここでやればいいさ」
俯いたあたしの頭を、ぽんと撫でたのは先生の手。
(どうして…?)
その感触に胸が張り裂けそうに苦しくなる。
だって今まで。
こうやって頭を撫でられるたびに、好きが増えていっていたから。
だけどすぐに思い出す、昨日の冷たい瞳。
そしてなにより、キバの存在。
これ以上、好きになっちゃだめ…――。
この優しい瞳に勘違いなんかしちゃだめ。
あたしには、キバがいる。
頭の中で、そう繰り返しながら。
「…分かりました」
あたしはソファに座り、頼まれた仕事を始めた。先生も向かい側に座って、言った通りに手伝ってくれた。
放課後の部活動でガヤガヤと外が騒がしくなったけど司書室の中は、紙に文字を書くボールペンの音だけが響いている。
作業中、ちらりと先生を盗み見て。
やっぱりなんだか悲しそうな表情は消えていなかった。
もう二度と、こんなに近くで先生を眺めることなんて出来ないんだろうな、なんて思ったその頃。
「………」
「……!」
ふいに先生が見上げて、何秒か目が合った。
「………」
それなのに、何も言わない先生はゆっくりと瞳を逸らして。何も言っていないのに、その瞳がなんだか泣いているみたいに悲しくて。
(どうしたんだろう…)
結局その真意は分からないまま、頼まれた仕事は終わってしまった。
「ありがとネ、助かったよ」
先生に書類を渡す。
いまだ悲しそうな表情の理由は聞けない。
きっと、あたしなんかが聞いたって話してはくれないんだろうな…。
そう思い、あたしはキバのもとへ急ごうと思った。
お礼を言われた先生にお辞儀をして、司書室を出る扉に手をかける。
(あたしがでしゃばったところで、先生を困らせるだけ。)
そう思っていたのに。
「…うずまき」
表情だけじゃなくて、呼ばれたその声もとても悲しそうで。
苦しそうで、辛そうで。
振り向いてみれば、その声の響きと同じ表情をしている先生がいて。
「うずまき…」
今までで一番。
胸が苦しくなった。
あたしの名前を何故呼んでいるのか、その続きの言葉を紡がないから分からない。
だけどなんとなく。
なんとなくだけど、何か助けを求めているようなそんな気がした。
…また、勘違いかもしれないけど。
もしかしたらまた、あたしの自意識過剰かもしれないけど。
それでもいい。
何を言われてもいいから。
だから、ねえ先生。
「…そんな顔しないで?」
先生の続く言葉を遮って、ぽつりと呟くあたしに目に見えて分かるように驚いている先生に。
「何かあったんですか…?今日はとても悲しそうな顔、ずっとしてました」
意を決してあたしは問い掛ける。
きっとまた、余計なこと聞かないでとか言われてしまうかもしれないけど。
だけど、止まらない。
「先生がそんな顔してるの、あたし、嫌です」
「………」
「笑った顔が、…好きなんです」
――止まらない。
引き金は、先生の悲しそうな顔。
あたしが先生を好きだと言ったって、先生を困らせるだけなのに伝えずにはいられなくて。
そんなの独りよがりなのに、あたしはあまのじゃくだから。
どうしても今、伝えたかった。
どんなに嫌われてもいい。
先生のそんな顔は耐えられなかった。
…好きな人には、笑っていて欲しいから。
「…なんて。あたしにそんなことを言われたって嬉しくもなんともないですよね」
しばらく沈黙が続いてはっとした。
こんなことを言ったって意味が無い。そんなこと、昨日の先生のあの瞳で分かりきっていたことだ。
情けなくて、恥ずかしくて。俯きながら司書室の扉にもう一度手をかける。
ちょうど放課後の鐘が学校中に鳴り響き始めた。
その時。
「今日も、アイツと帰るの?」
声が聞こえたのは、すぐそばで。後ろから伸びた先生の手が、扉に触れているあたしの手に重なった。
問い掛けた内容は、あたしが投げかけた質問の答えとは全く違う。
先生のちょっとだけ冷たい手は、上昇していくあたしの体温を分からせるようで。
「アイツって…誰、ですか…」
振り向けないまま、恐る恐る聞いてみれば。
「…犬塚、キバ」
すかさず返ってきたその答えにあたしはドキンと鼓動が跳ねた。
どうしてそんなことを聞くの…?
問い掛けたくても、言葉が詰まる。
聞こえた声があまりに近くて、思考がうまくまわらない。
どうにかこくりと小さく頷いたあたしはその瞬間。
視界が一変した。
「…行かせない」
ドキンドキンと、心臓の音が大きく鳴っている。
「アイツのとこへは、行かせないよ」
聞こえたその声も、内容も、理解出来ないくらいあたしの頭は真っ白になって。
「ここにいて…――」
耳元から切ないくらい切羽詰まった声が聞こえた時にはたまらなくなって、自然と口が開いた。
「先生…どうして…?」
どうしてだろう?
先生の逞しい大人の腕が、あたしを包み込んでいる。
鼻先から香るのは、先生の匂いでいっぱいで。
くらくらと、目眩まで起こりそうになるのを必死で耐える。
「先生…やめて、ください…こんなんじゃあたしまた、」
……また勘違いでもしてしまいそう。
蚊の鳴くような小さな声で呟いて、やんわりと先生の胸を押し返した。
だけどすぐにぐっと抱き寄せられてさっきよりも隙間が埋められる。
(どうしよう…あたし、どうしよう)
こうなればもう思考がうまくまわらないなんてもんじゃない。
あたしは何も考えることが出来なくて。
じんわりと涙が滲んだとき、抱き締めていた腕が静かに緩んでいくのを感じた。
「…うずまき、」
体が離れ呼ばれてゆっくりと見上げれば、眉が下がった先生の顔。
男なのに綺麗な指先があたしの目尻にそっと触れた。
「泣かせてごめん」
響く低くて穏やかな声が鼓膜を刺激する。
もう昨日のような冷たい瞳や声はどこを探しても見当たらない。
そして流れるように紡がれた、
「好きなんだ。お前を、好きになった」
甘い言葉に酔いしれて。
ナル子、と名前を呼ばれたときにはもう。
お互いの鼻先がかすかに当たるくらい顔が近い。
どうして突然こうなったのか、何も分からないまま。
だけど夢にまで見たその言葉に、あたしはもう先生のこと以外考えられなくなってしまうほど。
知らないうちに蓋をしていた、好きという気持ちがあふれていく。
「好きだよ、ナル子」
だって念を押すようにそう囁くもんだから。
囁いた声が、信じられないくらい切なくて。
ゆっくりと近付いてきた先生を、何の迷いもなく受け入れた。
―――ひらり、窓から優しい風が吹き抜けたこの司書室で。
あたしは先生と二度目のキスをしたんだ。
end.
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