ここはどこだったかな。
霞んでいく目がうっすらと教室の前の木目調のドアを辛うじて捉えた。
確かに廊下に立っているはずなのに、足が竦む。
底が真っ黒になってどんどん沈んでいく。
もう立てなくたっていいや、なんて思ってしまうほど。
「うずまきのことなんて…………好きじゃないよ」
キバが待っているからと、走ってきたのは良かった。
シカマルと話をして、自分の気持ちが固まったと思ったのに。
教室の中から聞こえる愛しい人の声。
あんなに大好きな声だったのに、頭を何か固くて重いものに殴られたみたいに、痛い。
「じゃあなんでナル子の誕生日なんか祝ったんだよ!抜け駆けまでさせてよ!」
キバの怒ったような声が響く。
あたしにはまだ、二人とも気付いてはいない。
半分だけ開いていた教室のドア。先生は見えないけど、キバの背中は見えた。
「別に。大した感情はないよ。普段当番だって頑張ってくれているし。ただ、それだけ」
――"それだけ"。
先生が喋るたび、頭の中でこだまする。
分かってたじゃない。
だってあたしはちゃんと振られてる。
あたしの気持ちは受け取れないって、初めて聞いたわけじゃない。
なのにどうしてあたしは、期待なんてしてしまったんだろう。
先生の優しさがもしかしたら…って、どうしてそんなことを思ってしまったんだろう。
いつもなら、振られたってそれでも好きでいたいなんて意気込むけれど、こんな風に直に聞いてしまったら…意気込むほど強く、いられなくて。
もう、なにも聞きたくない。
そう思うのに、なかなか体が動かなかった。
「うずまき?」
その後ろから声が聞こえる。その声にびくりと反応してしまう。
振り向けば、そこにはアスマ先生がいた。
「まだ帰ってねえのかー?早く帰って課題でもやれ」
「あ…」
「ん?」
アスマ先生の声は、決して大きくはないものの低音が静かに響いて。
「ナル子?!いたのか?!」
案の定、教室から慌てたように出てきたキバが心配そうに声を掛ける。
そのキバの背景には、一瞬目を見開いた先生と目が合ったと思ったらすぐに逸らされた。
まただ…。
こんな風に逸らされるのは前にもあった。
先生に、初めてキスをしたあとで。
だけどあの時は先生も戸惑っていたらしくあとから謝ってくれて。
今回も、戸惑っただけならいいのに。
「そういうことだから」
ポケットに手を入れて気だるそうに歩いてきた先生があたしの目の前に立ってそう言った。その時の先生の目も、声すらも今までにないくらい冷たくて。
「…そういうことって…」
「さっきの質問の答え」
そう言われてとっさに思い出した。"どうして優しくするの?"
確かあたしは、さっき廊下で先生にそう聞いたのだ。
「あ…」
「思い出した?」
「………」
「別にお前を、好きだからとかじゃないから」
「おい!カカシ!」
…勘違い、しないでよ?
アスマ先生が会話を阻止するように先生の名前を呼んだのに、それすらも無視をして耳元で至極、冷たく。
先生がそう言った。
どうして、面と向かって言うの?
声に出して聞きたかった。
それなのに体は勝手にその場から立ち去るように走り出してしまって。
「お、おい!うずまき!」
「ナル子…!」
アスマ先生とキバがあたしの名前を呼んだけど、走り出した体はどうにも止まらず。
もうあの場所にいたくなかった。
あの冷たい目に見られたくなかった。
(あんな先生は知らないっ…)
とにかく。
怖くて怖くて。
そこから逃げ出したくて、駆け出して、着いた場所は。
冷たい雨が降る、学校の屋上。
確か昼間は晴れていたはずなのに、初夏の空はこんなに変わりやすいのだろうか。
冷たい雨も気にせず、一目散にフェンスに手をかける。
「ハァ、ハァ…くっ」
ただでさえ視界が悪い景色なのに、滲んでくる涙のせいでどんどん前が見えなくなった。
このフェンスを飛び越えれば、もうこんな苦しい思いをしなくてすむのかな…
そんな馬鹿なことだって考えてしまうほど、苦しくて。
フェンスをぐっと握り締める。雨や涙で見えづらい地上へと静かに身を乗り出した。
もうあたしを拒絶するような瞳だった。
先生に拒絶されるなら、もう、いらない。
なにもかもいらない。
先生を好きな自分ごと、なくなればいいのに…―――。
ぐっと力を込めて、体を浮かせた。
その瞬間。
「ナル子!!」
あたしを呼ぶ声と一緒に、ぐんと後ろに引き寄せられて。
「馬鹿野郎お前!何やってんだ!!」
少し乱暴に、抱き締められる。
ぎゅっとあたしの背中に手を回し、しっかりと包み込むその手の正体。
「冗談でもあんな事すんのやめろよ!お前が居なくなったらオレ…どうすりゃいいんだっ!!」
叱り飛ばすような口調なのに、大事そうにあたしを抱き締めるのはあの場所からすぐに追い掛けて来たキバで。
「ナル子…!」
雨で冷たくなった体に微かにキバの熱が伝わる。
それくらい、キバはあたしを強く抱き締めた。
「やめちまえよ…そんなに苦しいなら、アイツを好きでいるのなんて、やめちまえ!」
オレがいるから…!
消え入りそうな、キバこそ苦しそうな声で。
あたしを抱き締める手が、少しだけ震えている。
こんなキバを見るのも初めてで。
…初めてだというのに、
(ごめん…キバ…)
優しく、そして力強く抱き締めるキバの腕の中で。
あたしは、やっぱり先生のことを考えていて。
『やめちまえ』
キバのその一言が、はっきりと自覚させた。
"じゃ、内緒ネ"
いつもあたしの頭を撫でてくれたあの手も。
"出血大サービス"
勘違いしそうなくらいの優しさも。
"誕生日、おめでとう"
優しく細められたあの瞳も。
全部、ぜんぶぜんぶ。
思い出される、忘れることなんてなかった。
結局あたしは自惚れていただけだった。
先生があまりにも優しいから、期待してしまった。
期待するということは、先生があたしを好きになるかもしれない、なんて。そんなこと。
…恥ずかしくて、情けなくてこんなにも苦しくて、胸が張り裂けそうなのに。
なのにやっぱり好きなんだ。こんなになったって、好きなことをやめるなんて出来ないと分かってしまった。
あたしは、きっと。
ずっと先生が、好きなんだ。
こないだ振られた時にはまだ分からなかった。
改めて思う。
あたしの恋は、絶対に叶わない―――。
「…うっうっ、わああああ!!…ふっうっ…」
「ナル子…」
キバの腕の中で、あたしは大声をあげて泣いた。
人生最大の失恋と、キバへの罪悪感と。
涙なのか、雨なのか。もう何も分からないくらい、ぐちゃぐちゃになって。
この日の雨は今までで一番、冷たいと思った。
(流れるなみだはあなたのため)
end.
back