ああ、あの人が呼んでいる。
「姫……」
御簾の外から呼ばう声に、薔子(しょうこ)は顔を上げた。
狂おしい思いに焼かれた喉からは、ひうひうという息の根しか漏れない。衝動に突き動かされるように伸ばした手は見えぬ壁に阻まれ、御簾に触れるか触れないかという位置で留まっていた。
蛍の君。
唇だけで彼を呼び、こぼれそうになる嗚咽を飲み込む。
蛍の君、蛍の君、蛍の君。
お慕いしています、恋い焦がれています、愛しています。
ああ、けれど。
きゅっと唇を噛みしめる。まなじりからこぼれた雫が頬を濡らし、はらはらと落ちた。
この声に、応えてはならない。
けして、応えてはならない。
「姫。薔薇(そうび)のごとくかぐわしい、わたしの姫」
彼の声音に、薔子の身体は震える。
「お迎えに上がりました、姫。……ずっと一緒に、おりましょう」
こみ上げる愛おしさに、魂が震える。
『姫。もう二度と、その男と会ってはなりませぬ』
その言葉を、忘れたわけではないけれど。
『けして、御簾を上げてはなりませぬ』
その理由を、知らないわけではないけれど。
それでも、心は浅ましく願うのだ。
「……蛍の、君」
御簾を上げた先にたたずむ男は、黄昏の中、艶めいた微笑みを浮かべて薔子を見つめている。
「やっと、お会いできた。――薔薇の君」
涙でにじむ視界の中、彼の姿だけははっきりと見えた。
彼とずっと共にありたい。
たとえこの思いが、禁じられたものであろうとも。
***
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