べしゃ、と何かが落ちたような、潰れたような音がした。
桜舞う春とはいえ、夜風は冷たく肌寒い。木々の葉擦れの音が響き、桜の花弁がはらりと落ちる。
朱雀大路を真ん中に碁盤の目のように路が走る京。そのある一画に建つ小笠原(おがさわら)家の邸。
貴族の邸としては、広いとはいえないが埃もなく、庭もきちんと整備されている。
ふいに引き上げられた意識に、理香は何度か瞬きし見慣れた天井を見詰めた。
元々浅い眠りだ。
ちょっとしたことですぐに目を覚ましては、何度も夢の境を行ったり来たりしていた。
ぺたぺたと何かが歩くような音、それから何かを引きずるような音。
ひやりと背筋から首へ何かが這う感触に、理香(りか)は反射的に上体を起こした。
「困っている、困っている。助けてやろうか、助けてやる」
濁ったような声が響く。
理香は声の聞こえたほうにゆっくり顔を向けた。
夜の闇に目が慣れてくると、漸く声の主の姿がはっきりと見える。
几帳の影から、小さな顔がこちらを覗いている。
目が異様に飛び出て、痩せこけて奇妙な顔。小鬼のそれだ。
三尺にも届かない程度の背丈に、骨と皮、腹ばかりが目立つ姿は人ならざる者。
その容姿に特に驚く様子もなく、じっと睨み理香は低く問いかける。
「……どういう意味ですか」
「これ、やる」
小鬼は背負っていた小さな古ぼけた袋を理香の傍へ置くと、再び几帳の向こう側から顔だけ覗かせた。
おそるおそるその袋を開ければ、夜の闇の中でも眩しい金。砂金だ。
「……まだ足りないわ」
半額ほどだろうか。邸を売り払っても足りない借金だ。
そうおいそれと貴族の姫が返せる額ではない。
小鬼が几帳の影からもう一袋見せたが、すぐさま引っ込める。
「もうひと袋はこっち。けど、やらぬ。これはお前の扇と交換だ」
「私の……!? これは……母の……!」
「なら知らぬ。知らぬ。どうなろうと、知らぬ。知らぬ」
小鬼は口の端を引き上げ、意地悪く笑った。
「……お断りします」
妖(あやかし)の誘いだ。
幼馴染の陰陽師から、妖からの誘いには乗るなと、きつく言い渡されている。
理香は視線を逸らし、小鬼が傍に置いた砂金も遠ざけた。
それを見た小鬼は理香を追い立てるように続ける。
「お前は、追い出される。……お前は身を売る。身を売る」
「やめて!!」
返せないのなら、嫁げというのが条件だ。
当然、心まではそうも行かない。貴族の姫なら政略結婚がほとんどだが、しなくてすむならそのほうがいい。
何よりも、これは理香が同意したものではないのだから。
雫が褥に落ちる。
じわりと広がり、染みを作った。視界が歪んで、心が潰されそうになる。
それを見られまいと理香は顔を両手で覆った。
「扇と引き換えに、全部やる。間に合わなければ、追い出される。身を売る」
「でもそれだけは…その扇だけは…」
「じゃあ、俺の名前を当ててみろ。十日後だ、十日後までに俺の名前を当てたら、連れて行かない」
「十日後ね……分かったわ」
ぐっと唇を噛み、理香は子鬼の言い分を了承してしまった。
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