風が、青々と茂る楓の葉を揺らす。
その風に水の匂いが混じっている事に気付いた時、ぽつぽつと天が泣き出した。
冷たい雫が差し伸べた手を滑り、袖口を濡らす。簀子にまで降り込んでくる所を見ると、かなり風が強い様だ。
「姫様」
不意にかけられた声に、物思いにふけっていた少女は我に返った。
扇も持たずに御簾の外に出ていた事を思い出し、しまったと顔をしかめる。
裳着を終えた娘が顔を隠しもせずに御簾の外に出るなど、常識知らずも甚だしい。
案の定と言うべきか、少女に声をかけた女房は顔をしかめていた。
「……姫様」
たしなめる様な声音に、少女は頬を膨らませる。
藤原一門とではあるが、少女の家はそれほど身分が高くない。内裏や参議の姫に仕えるだけの教養も無いし、公達がこぞって歌を贈ってくるわけでもない。
つまるところ、少女が御簾の外に出ようが一人で市に赴こうが、それを気にするのは家人と仕えている者達だけなのだ。
風に煽られて、身の丈程まで伸びた黒髪が揺れる。艶やかな髪は動き回るには邪魔で、何度言われても身の丈以上に髪を伸ばす気にはなれない。
姫様、と再度名を呼ぶ声音が低くなった事に気付き、少女は渋々と口を開いた。
「……雨だもの。こんな中、わざわざ訪れる人なんていないわ」
「そういう問題ではありません。貴族の姫が御簾から出る事が問題なのです」
「昔は庭で遊ばせてくれたのに」
「いくつの時の事を言っているのですか。あれは裳着の前でしょう」
たかだか半年前ではないか。
心の中でそう呟く。半年前まで許されていた事が今では許されないのは、どこか理不尽に思えた。
しかしそれを口に出しても、どうにもならない事は分かっている。説教が長引くだけだ。
気を取り直して、少女は女房を見上げる。
そして、彼女が抱えているものに気付いて首を傾げた。
「……それ、文箱よね?」
ええ、と女房が頷く。
「姫様に文です。御簾の中に入って頂けたらお渡ししようと思います」
女房は、とにかく少女を御簾の中に押し込めてしまいたいらしい。
彼女の言葉に、少女は乱暴に御簾を巻き上げた。もったりと身体にまつわりつく袿に邪魔されながら、それでも素早いと言える動作で部屋の中に滑り込む。
まだ昼であるのに、部屋の中は薄暗かった。激しさを増す雨のせいかどこか湿っぽく、陰気にさえ思えてしまう。
畳の上に腰を下ろして脇息を引き寄せると、続いて入ってきた女房に文箱を渡された。
余計な装飾の施されていない、質素な文箱だ。一体誰が送ってきたのだろう。
ようやく大人しく部屋の中に入った少女を見下ろして、女房がやれやれといったように嘆息した。
「……いつまで童の様な事をするのやら」
頭上で嘆く女房をきっぱりと無視して、文に目を落とす。
短く簡潔に書かれたその文を何度も読み返し、少女はぱっと顔を輝かせた。
***
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