「…落ち着いた? あと、わかってくれた? 俺がここにいるって」
「は、はい…っ」
ぎゅぅ、と力のこめられた腕は思っていたよりも太くてごつごつしているような印象を受けた。
胸の鼓動までもがきこえる。きこえるということは、自分のそれもきこえてしまうのではないか。と、さらにとりとめないことを考え出したところで顔中が熱くなるのを感じる。
「昨日、様子がおかしかったから…昼間少し、このあたりをうろうろしてたんだよ。もしかしたら紫に会えるかなーと思ったんだけど…。うん、会えなかったけど、なんだか雇われちゃってね」
仕事でも探していると思われたのだろうか。紫の邸から出て来た者に偶然呼び止められ、ご用を承ったわけである。願ったり叶ったりな緋桜は、喜び勇んで堂々と彼女の邸の門を通った。
「びっくりしたよ。話は一通りきいたけど…まさか紫が、件のお姫様だったなんて」
「…知ってしまわれたのですね」
緋桜は紫を抱き締めたまま、決して離そうとはしない。むしろますます強く抱きしめる。抱き締め返そうかを逡巡し、上げかけた手を下ろす。
先ほどとは違う涙が、頬を伝う。
なんの、涙だろう。これは。
「遠くへ、行ってしまうんだね」
「…はい、そのようです。太宰の地へ行くのだと、ききました」
「いや?」
そうきかれ、紫は押し黙る。優しく髪を撫でられ、彼の腕にひたすら縋った。衣に皺が寄るほど、握りしめて。
それでも、口から自分の気持ちは出て来なかった。
「…俺、いやなら紫をさらってあげるよ」
「ひお」
彼の名を呼ぼうとしたところで、口を塞がれた。息が出来ない。心臓は、止まっているのか動いているのかわからないほど、頭が真っ白になっていた。
どのくらいそうしていたのか、緋桜はゆっくりと離れ簀子から身軽に下りる。茫然としている紫にいつもの微笑みを投げかけ、歌うような口ぶりで、言う。
「譲れない思い、見つけたら教えて。三日後、祝いの席で会おう」
開こうとした口を人差し指で抑えて制した緋桜は、もう一度にこりと笑って門のところへ戻って行った。背中が見えなくなっても、その辺りをじっと見続ける。
鳴り止まない胸元を握りしめながら、空いた手で唇に触れた。
感触を、鮮明に思い出せる。息遣いも、肩を掴む、強い手も。
譲れない思い、見つけたら教えて。
その声がただただ、頭の中で繰り返し繰り返し、響いた。
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