月夜白拍子
 





 どうしてこんなことに…?


 あまりに想定外の出来事に、紫の頭は混乱していた。だが、楽しそうに舞いを教えてくれている緋桜に不思議といやな感情は抱かない。
 琴や歌の稽古はしたことがあっても舞を習うのは初めてだった。体を動かすことをあまりしないためか、すぐに息が上がってしまう。そんな紫に緋桜は、休憩を適宜挟みながらゆっくり、少しずつ舞いを教えてくれた。
 一週間後の本番の練習は大丈夫なのかと問えば、昼間に練習をしているから平気だよ、と朗らかに応える。

 舞いを仕込まれ始めて三日目、緋桜と出会ってから四日が経った。
 当初と比べると随分すんなり思ったことが口から出るようになった紫。緋桜は殊更喜んで、熱心に舞いを教えてくれる。


「うーん、紫は飲み込みが早くて教える側として楽しいし、嬉しいよ。俺追いつかれたらどうしよう」


「追いつくだなんてそんな…始めて長いんでしょう?」


「ここ五、六年の間かな。案外最近だよ」


 紫の実家ではすでに、結婚の準備が進められていた。昼間はその手伝いを黙々とこなし、夜になるのを待ち望む。
 話をしていて楽しい、少しだけしか話が出来ないのは、なんだか苦しい。


「あ、腕下がったよ。もう少しゆっくり腕を動かして」


「…お師匠様は厳しいですね」


「だから、お師匠様だなんて呼ばないでよ。緋桜でいいって言ってるでしょ? 結局俺の名前一度も呼んでくれたことないじゃないか」


 どさくさにまぎれて一度も彼の名を呼んだことがないことを、緋桜はしっかり知っていたようだ。曖昧に笑って見せた紫を見て、まぁいいけどね、とぼやくように漏らす。


「あ、そうだ。きいて。紫」


「はい。どうなさいました?」


「本番をどこでやるかが決まったんだ。三日後に、この町から遠くへお嫁に行くお姫様がいるんだって。その、祝いの席で踊ることになったよ」


「え…?」


 お嫁に行く、お姫様。その、祝いの席?
 今日の昼間、母に言われたことを思い出す。

 三日後です。あなたの祝言を挙げますから、そのつもりでいるのですよ。

 たったそれだけの言葉に、紫は頷くことも、返事をすることも出来なかった。数日前なら、はい、とすぐにでも返事が出来たであろうことだったのにも関わらず。どうしても、息が詰まってしまって。
 心のわだかまりがなんなのか、わからない。ただもやもやと、気持ちを覆い隠すようにそれはあって。
 口にしてはいけないと、喉元で止まる。

 もしかしなくても、そのお姫様というのは。まさか。


「めでたい席で踊ることが出来るのは、俺嬉しい。まぁ、男ってことは隠すように厳重注意されたけどね」


「そう…ですか。祝言…おめでたいですね」


「紫?」


 突然様子の変わった紫を見て、緋桜は首を傾げさせた。明らかに動揺している。もう一度彼女の名を呼ぼうとしたところで、貸していた蝙蝠を突き返され遮られてしまった。
 俯いたまま、彼女は言う。


「あの…っ、私、今日は少し眠たいので…失礼しようと思います…!」


「ここ数日夜更かししてここに来てるから仕方ないとは思うけど…、紫? どうかしたの?」


「いえ、なんでも、ありませんから…! 失礼いたします!」


 いつかのように後ろから呼び止める声をききながら、紫は家路を辿って山を下りた。
 数日の間に彼女は、もう迷わず緋桜が夜な夜な舞の練習をしている場所まで行けるようになっている。慣れた道のはずが、途中で足がもつれて転んでしまった。


「いた…」


 膝をしたたか打ったようだ。じわじわと広がる痛みに耐えながら、紫は門をそっとくぐり、脱いだ壺装束を片付けるのもそこそこにいつものように茵に潜り込んだのであった。

 涙が出るのは、痛みのせいだと決めつけて。



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