「ほら、ついたよ。生憎紫の邸がどれかまではわからないんだけど…どう?」
ぐるりと見渡した中に、見覚えのある門構え。ほっと息を吐いたのが彼に伝わったらしい。その手が離れて行った。紫はすぐに振り返る。
お礼を。それから、お詫びを。言わなくてはいけないのに、張りついた喉がそれを簡単に許してくれなかった。
「邸は無事見つかったみたいだね。じゃぁ、俺の役目はここまでだ」
「あ、あの…っその」
「うん?」
首を傾げて、紫を待っていてくれている緋桜。だがそれでも、なにも言えなかった。
どうしようもなく早鐘を打っている自分の胸が、なぜそうなっているのかわからない。ぐるぐると思考が巡るが、どれから先に伝えたらいいのやら。
「無理して喋らなくていいよ。まぁ…仕方ない…よね」
困ったように柳眉を下げ、彼は苦笑する。
初対面の男と上手く喋れないことを、察してくれたらしい。この時代では、栓のないことである。
邸への道を促され、紫は後ろ髪を引かれる思いで門へと向かった。
「…ねぇ、紫」
まるできこえなくても構わない、というような声量で緋桜が名を呼んだ。不思議とその声が耳に届いた紫は振り返り、はい、と同じくらいの声で応える。
朗らかに微笑んだ彼は、小さく手を振って。
「よかったら、明日もおいで。俺は変わらずあそこで、一週間後の本番まで練習をするつもりだから。さっきも言ったけど、やっぱり観てくれる人がいるのといないのとでは随分差が出てしまう」
それだけを言うと満足したのか。緋桜は衣を翻し、紫の返答もきかずに森の中へ戻ってしまった。引き留める暇すら与えてくれなかった。
後姿の消えてしまった森を見つめていた彼女は、己の頬を一度叩き夢ではなかったことを確かめたあと。
門をくぐり、両親に気づかれないように足音を忍ばせ、自室へそっと戻ったのであった。
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