君をわすれじ
 



「…」


 塗り潰されたような漆黒の暗闇の中で、もぞりと何かが動く。
普段の生気の感じられない、抜け殻と化したようなその姿。もはや闇に溶け込みそこに座るのは、季惟だ。近くで揺らめく仄かな灯りは、女房がつけていったのだろうか。それが季惟の横顔を仄かに照らし、酷く不気味である。
 他の人間の気配は、この母屋には感じられない。皆季惟の心内を慮ってのことだろう。


 自分が篭るようになってから、最初こそ家臣たちが自分を励まそうとよく訪れていたが、それも最近は無くなった。来るのは身の回りの世話をする女房くらいだ。
 ああ、雪花に会いたい。願うはそれだけ。
文机に突っ伏すように顔を埋める。しかしその時、何の前触れもなく御簾が上がる音と共に何かの気配が入ってきた。


「…誰だ?」


 反射的に顔を上げ、音がした方向を見る。だが灯りの届かないそこは闇しかなく、それが何かはわからない。
 屋敷の主のである季惟の部屋に、何の断りもなく入ってくる等なんと無礼なことか。
しかし今の季惟にそれを咎めるだけの気力など欠片も残っておらず、ただ何者かと聞く事しか出来なかった。

 だがいくら待ってもそのものは返答する気配がない。それどころか暗闇の中に暫く佇み、気配で感じるだけであるがこちらを見つめている。
 やがてその気配は、ゆっくりとこちらへ近づいて来た。ひたり、ひたり、と素足で床を歩く音が嫌に耳につく。


「…誰だ?」


 もう一度、季惟はそれに問うた。しかしやはり、答えは返って来ない。気配のみが音と共にこちらに近づいてくる。

 見えるのは常世の闇だけ。聞こえるのは足音。感じられるのは、灯りが揺れる気配と冷気のみ。
 じり、と唯一灯した灯りが揺れた。その瞬間そのわずかな光に照らされ、ようやくその気配が姿を現した。


「…雪花…?」





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