「思ひ出づ もみぢ葉あをき 我がつぼの そを見ゆるべし ゆめの通ひ路」
(もみじの葉が青かった昔のように、この邸に居た幼い頃を思い出していました。貴女と昔話が出来るだろうと、やってきましたよ)
ぱさ…
と、御簾の揺れるかすかな音。
高比良は相変わらず、御簾の向こう側…。
「…また…碁を打ちに来ても良いかな?」
少し間を置いて、高比良は言った。
しかし、由芽が返事をするよりも早く踵を返した高比良は「おやすみ」と声をかけると静かに局の前から退散してしまった。
(高比良さまは、今何をしようとしていらしたのかしら!?)
深く考えなくても分かった。
体中の血液が沸騰したように身体は熱く、心の臓が早鐘のように鳴り響いている。
(高比良さまは…姫さまの和歌の意味を分かっておいでだったんだわ!)
由芽の中で、恐怖にも似た驚愕が押し寄せて心が潰れそうになった。
しかし返歌どころか、高比良の言葉に返事を返せなかった事が心に残る…。
漠然と…
返事をしないままだと、もうお目にかかることはできない…
という思いが湧いてくる。
実際、近い未来…そうなるであろう。
自分の邸宅に住まう彼はいつか身分相当の娘を娶り、滅多なことでは生家に足を向けなくなるだろう。
そうなればもう…二の姫の乳母子である自分と碁を嗜むなど二度と無い。
「幼馴染」という縁も無きに等しくなると悟った時、由芽は世間体を考えるよりも早く、局から飛び出していた。
「高比良さま!」
まだ、彼の姿は透渡殿に有る。
(これが高比良さまの姿の見納めになるなんて…いや…!)
*前 | 次#
作品一覧へ