成人して名を桐君から高比良に改め、既に内大臣邸を出て自分の邸宅を持っていた高比良だが、生家には良く遊びに来ていた。
「生家では無く、素敵な姫君のところに通いなさいませ」と母君は言ったが、それでも彼を快く迎えてくれた。父である内大臣も同じだ。
この日、高比良の方違えに乗じて内大臣は小さな宴を催した。他にも方違えのために内大臣邸に世話になりたいと申し出てきた公達がいたようで、内大臣はそれを断るどころか大いに歓迎した。そうして集まった者たちをもてなすのが、内大臣は好きだったのだ。
「秋の虫の音を嗜みながら酒を酌み交わそう」と、内大臣は方違えに訪れた公達を誘い、宴には二の姫も呼び出された。
宴の席の簾中で、二の姫の脱走劇の話しをしながら高比良と碁を嗜んだと由芽が言えば、そんな昔の事を今更穿り返す必要もないでしょう?と二の姫は眉根を寄せた。しかし、口許に手を宛がった二の姫は、思案するような顔で由芽を見詰めた。その様子に由芽は嫌な予感がしたが、見て見ぬふりをした。姫の悪巧みに付き合うなど正直ごめんである。それで叱咤されるのも大変な話。
(姫さまは母に叱られてもなんとも思ってないようだわ…)
とげんなりしてくる程だ。
「待ちわびし 燃ゆるころあひ もみぢ葉の 虫の音のみぞ 其れを知るなり」
(我々が待ち侘びていたもみじの色づく頃合を、虫たちだけは知っていたようだ)
突然詠まれる和歌。
声からすると内大臣のようだ。
酒の席になると、言葉より先に和歌が口から出てくるのは当然ではあるが、和歌の才に長ける二の姫の父なだけあり、内大臣も大層和歌に長けていると評判だ。
内大臣の和歌に公達が返歌を詠み、宴はいよいよ盛り上がってきた。
そんな中、菓子をつまみつつ二の姫は面白くなさそうに檜扇を鳴らしていた。由芽は姫が退屈しているのを察したが、高比良が何か詠むというので、そちらの方に意識が行ってしまった。
「もみぢ葉の 燃えるころあひ 待つごとし 我も待つらん 燃ゆる時をば」
(もみじが色づく頃合を待っていたように、私も待っているのだろう。恋に燃える日を)
高比良の和歌に、間髪入れず「意味ありげな歌ですこと」と母君が言ったが、高比良は曖昧な笑みを零すだけだった。
とさ…
手元から滑り落ちた檜扇が、膝の上で音をたてる。
一瞬、呼吸が止ったかのように思った。
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