君恋ふる、かなで
 


いつの間にか日も暮れ、藤壺が侍女に呼ばれる隙を見計って為直は部屋を抜け出す。
人の気配の途絶えない後宮も、だが少し外に出れば案外静寂で満ちていた。
姉に足止めされる前に退出しようか・・・そう思案していた青年の耳朶に微かな声が届いた。

「これは・・・」

囁くような声につられ、彼は人気の少ない廂をそっと歩き出した。
宵闇を落とした庭先に、月の影が降り注ぐ。光の粒がきらきらと照らし出すのは、草の影から覗く撫子だった。小雨でも降っていたのだろうか、淡い桃色には甘露が浮かんでいる。
夜風に揺られ甘く匂い立つ香は、とても懐かしいものだった。


「更・・・衣えぇ・・・せぇむ・・・、しぃ・・・ゃ・・・公達・・・やぁ――」


その庭に向かい合い、玉依姫が声を震わせる。
斎院よりも高く幼い声は、撫子の露を吸ってしっとりと優しい。
琵琶で拍子を取るようにして彼女が歌うのは催馬楽(さいばら)の「更衣(ころもがえ)」であった。

「・・・っ、少将・・・?」

青年の気配に気づき、玉依姫が振り返る。
昼間とは違い、くつろいだ袿姿は秋らしい女郎花であった。

「・・・玉依姫は、琵琶が好きなのか」

こっそり覗き見ていたような気まずさを抱えながら、話題を避けるように為直は少女の手元を指し示した。
彼女が抱えている楽器は、宮廷のものでも藤壺所有のものでもない。
その木目に浮かんだ味わいは、何代にも渡って大切に伝えられてきた代物であると知れた。
恐らくは玉依姫所有の琵琶なのだろう。

「はい。どの楽器も捨てがたいですが、わたくしは琵琶が一番好きなんです」
「・・・そう、か・・・」

亡き斎院も、四音の中では特に琵琶を愛した女人だった。
その面影以外にも、ふたりが母娘であることを何だか実感させられる。


「・・・少将は、とても優しい方ですね」


なおも弦を手遊び程度に弄っていた少女は、小さく笑いながら言った。
これには為直も返答に困った。



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