「俺は、今は名もない男の白拍子です。でも、これから京の都まで名の知れた舞い手になることを約束します。紫と、そうなりたいんです。だから」
「紫を、連れて行くと言うのですね」
言いたかったことに先回りをされ、詰まってしまった緋桜は逡巡したあと。そうです、と応えた。
母は長い間、黙って緋桜を見ていた。そして次は、同じくらい長い間、娘を、紫を見ていた。
やがて観念したかのように、首を左右に振り肩を落とす。
「…私は少し、娘を厳しく縛って育てすぎてしまったようです。逆らわないのがいい子だと思っていましたが…あなたがそうやって私になにか言い返して来たのは、初めてでしたね。それだけ、あなたが本当にやりたいことなのでしょう」
「お母様」
「…邸の中しかまともに知らないあなたのことが、心配です。でも…外の世界も見て来なさい。いつでも、帰って来るのですよ」
泣きそうに顔を歪めながら、娘を撫でて母は言う。堪えきれず紫は母に抱き付き、子どもに戻ったように泣いたのだった。
捨てられてしまったと思っていた壺装束をどこからか持って来た母は、それを紫にてきぱき着せ、必要最低限に必要なものを手提げに入れ娘に渡した。
いってらっしゃい、と門前で送り出され、また母に抱き付いた。
「…紫、そこまでされたら俺、君を連れて行くことが忍びなくなるよ」
「ご、ごめんなさい緋桜…」
「娘を、お願いします」
「はい」
母から離れ、一歩、一歩と森へ近づく。出会ったあの場所の近くに、先ほど奏者をしてくれた仲間たちがいるのだと緋桜は教えてくれた。
がさがさと道をかき分けるたびに、目印として落とされた白い石が目に入る。もう覚えた道だというのに、なぜだかそれを見ながら、探しながら歩いてしまう。
「本当に、よかったの? 紫」
「今更、そんなことをきくのですか?」
くすくすと小さく笑った紫は、握った手に力をこめて当たり前ですと応えた。
木々の間から月明かりが落ち、地面に葉の影を優しく落としている。月明かりがこんなにも明るく優しいものだと知ったのは、彼のおかげなのかもしれない。
「私は、あなたと一緒に白拍子になるんです。京まで、名の知れ渡る白拍子になるんです。お母様とも、佐伯様とも約束をしました。私は、その約束を守りたい」
「うん。…一緒の夢を持つ人が君で嬉しい」
開けた場所に出る。紫と緋桜が出会った場所。今宵は満月に照らされ、まるで舞台のようだった。中央に進み出た彼は彼女の手を取り、真正面から見つめる。
「必ず俺と一緒に、この国で一番の白拍子になろう」
「はい。必ず、あなたと一緒に」
額を合わせ、どちらからでもなく口づけを交わす。
月明かりが、ふたりを照らす。木々のざわめきが、さながら拍手のようにこだまする。
大樹が葉を揺らし、微笑ましく見守っているような印象すらあった。
数年後、『緋桜の君』と呼ばれる珍しい男女の白拍子が、京の都に名を馳せる。
太宰のとある式典に名指しで指名されたふたりは、喜んで舞いを舞ったそうだ。
あの時、ひとりは歌い、ひとりは舞っていた、あの曲を。
ふたりで一緒に、舞い上げた、と。
見たものすべてを魅了し、感動を与える、素晴らしい舞いだった、と。
太宰のとある役人が、なぜかとても満足げに語っていた。
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